秩序を形成する革命
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(十)
(中山 元)

 さてフーコーはこの原始人と野蛮人の概念的な対比について、さらに考察を深めている。すでに指摘したように、原始人は社会に接した際には原始人であることをやめる。これに対して野蛮人は、文明社会との対比において「野蛮」barbare である。これはギリシアの古代からの定義である。原始人が自然状態を土台として登場するとすれば、野蛮人は文明との対比において登場する。

 原始人と野蛮人の第二の違いは、原始人はある意味では文明を前提とし、文明を可能にするものとして想定されているのに対して、野蛮人は文明に対して攻撃をしかけ、これを征服しようとする。原始人は社会に入る以前において「自由」であると想定されているが、野蛮人は他者を征服し、他者の自由を奪うことにおいて初めて「自由」になる。

 そして野蛮人が自らに法律を定め、王を戴き、首長を選ぶとすれば、それは自己の自由を制限するためではなく、盗みと侵略と暴力においてさらに強くなり、さらに大幅に他者の自由を奪うためであるとフーコーは指摘する(SOC:175) 。野蛮人にとっての権力のモデルは、軍事的なモデルであり、原始人のような自己に固有の権力を放棄する契約のモデルではない。フーコーは、ブーランヴィリエが18世紀に提起した歴史のモデルは、この野蛮人のモデルであると考える。

 この二つの「素朴な民」の対立的なイメージは、われわれが社会について考察する際に、その背景に絶えず存在し続けていたといっていもいいだろう。契約の民と戦の民。フーコーは現代においても、原始人はつねに「良き民」とみなされ、野蛮人はつねに「悪しき民」とみなされると主張している。
 [野蛮人は]傲慢で非人間的であらざるをえない。それは野蛮人は、[原始人のような]交換と自然の人間ではないからである。野蛮人は歴史の人間であり、略奪と戦火の人間であり、支配の人間である(SOC:175) 。

 フーコーはこの二つの「素朴な民」の概念を対比させながら、18世紀における歴史・政治的な領域における戦術を、ブーランヴィリエが提起した四つの要素を基礎にして配置できると考えている。この四つの要素とは、すでにのべられてきた政治体制(constitution)、革命(revolution)、野蛮(barbarie)、支配(domination)である。

 この四つの座標軸をもとにして、次のような問いを考察することで、18世紀の政治的・歴史的なディスクールはすべてその戦術的に位置を措定できることになる。
●どのようにして、野蛮の解放と政治体制のバランスをとるか。
●力の配置において、野蛮が暴力や自由とともにもたらすものを戯れさせるか。
●構成な政治体制を構築するには、野蛮をどのようにして維持しながら、これを遠ざけるか。
●有益な野蛮をどのようにして再び見いだすことができるか。
●野蛮をチェックしながら、政治体制を構築する革命をどのようにして実現するか。

 要するに、それまでの政治体制を革新するために必要とされた暴力的な力を導入する「野蛮」という概念をいかに飼い慣らしながら、新しい秩序を形成するかという問題である。18世紀の貴族階級、王の専制的な権力、ブルジョワジー、そしてブルジョワジーのさまざまな潮流は、「歴史」という野蛮な力を導入しなから、いかにして自らの望む秩序を形成するかを模索しながら、歴史的、政治・歴史的なディスクールを展開していたのである。

★野蛮についての三つのディスクール
 そしてフーコーは、ブーランヴィリエ以降の18世紀から19世紀にかけての歴史と政治のディスクールは、野蛮barbarieというテーマを革命といかにして結び付け、新たな秩序の根拠にするかという視点から形成されたと指摘している。

 すでに繰り返し指摘されてきたように、ブーランヴィリエは貴族階級の復権を目的としながら、「偉大なるブロンドの野蛮人」の概念をテコにして、侵略と暴力的な征服という歴史的および法的な事実、土地の占有と住民の隷属化という歴史的な展望を導入してきた。

 こうしたブーランヴィリエの主張を背景としながらも、ブーランヴィリエの展望のもっていた性格を覆すために、この野蛮とのかかわりにおいて、18世紀の歴史のディスクールは三つの大きなヴァリエーションを示すとフーコーは指摘する。今回はそのうちの二つのディスクールについてみてみよう。

 最初のディスクールは、野蛮人による暴力的な征服と支配という事実そのものを否定しようとするものである。これは貴族の祖先がゲルマンから侵略した野蛮人であったことを否定することによって、ブーランヴィリエの重要な論拠を奪おうとするディスクールであり、主として王政の側の歴史家がこれを唱えた。

 フーコーがあげているのは、1734年に『ガリアにおけるフランス王政の確立の批判的な歴史』を著したJ.B.Dubos と、1773年に『王政の歴史にみた道徳、政治、公的な権利の教訓』を著したJ.N.Moreauである。この理論は貴族がゲルマン起源であることを否定し、貴族が政治的な権利を獲得したのは征服の後の段階においてであり、人為的な手段によってであると指摘する。

 これらの歴史家は、ガリアを侵略したフランク族とそれに基く貴族の権利というものは「神話」、ブーランヴィリエが作り出した神話にすぎないと一蹴する。ガリアに侵入したのはブログンドやゴート族であり、ローマ帝国はこれらの民族の侵入に対抗するために、フランク族の力を借りた。フランク族は少数ずつ、軍事的な援軍として導入されたのであり、フランク族は侵入したのではなく、移住してきたというのが、このディスクールの主張である。
 このディスクールはフランク族が同盟者としてローマ帝国によってガリアに呼び込まれたのであり、そのためにフランク族は市民権を認められるようになったというわけである。ローマとガリアの政治的な機構は原則的に維持され、クロビスがローマの執政官だったことが示すように、王政の機構はゲルマンからの移民たちを吸収した。野蛮人の貴族階級が権力を握っていたのではなく、絶対王政が権力を保持したのである。

 Dubos によると、貴族たちが権力を獲得したのはこの「侵略」の時点ではなく、その後の緩慢な政治過程においてであり、内部から絶対王政の「侵略」が行なわれたということになる。これは王の絶対的な権力を簒奪する試みであり、これと闘う必要があるというのが、Dubos の書物の一つの結論となる。
 第二のディスクールは、侵略という事実は認めながらも、この野蛮の導入によって、貴族たちが政治的な権利を獲得し、維持する根拠を否定するものである。フーコーがあげているのは、『フランスの歴史についての観察』を著したG.B.Mably 、『北方の民による攪乱以降の近代ヨーロッパの歴史』を著したN.de Bonneville 、『隷属の鎖』を著したMarat などである。

 この理論では、ゲルマンの民はガリアに侵入したが、この民は貴族制の核を構成するゲルマンの戦士たちではなく、たんに武装した民衆にすぎなかったと主張する。ブーランヴィリエの貴族たちは、ゲルマンの森の自由をもちこんだとされていたが、この理論からは自由を持ち込んだのは貴族たちとなるゲルマンの戦士団の首長ではなく、個々の兵士たちだということになる。

 この場合にはガリアに成立したのは、貴族的な自由ではなく、民衆的な自由だということになり、成立していたのは貴族制ではなく、民主制だということになる。この戦士民主制においては、戦士たちは自分の完全な独立と自由を維持することを望み、戦士たちの集会が、王政を支配していた。

 Mably は、教会側はこの内実を知らないために、ゲルマンの民の政治制度を絶対王政に相当するものと判断したと指摘する。そしてこの絶対的な自由の制度のうちから、緩慢なプロセスとして貴族制と王政が「双子の姉妹」のように手を結び合いながら発展したということになる。

 王政は民主制の土台の上で権力を掌握するために貴族制を必要とし、そのために封建制が誕生する。貴族制は自己の権力を保持するためにも、強力な権力を保有する王政を必要とし、カペー朝以来の王政を確立する。貴族制と王政は、侵略した野蛮なゲルマンの民の自由に対抗するために、支え合って成立してきたということになる。

 フーコーが提示する第三のディスクールは、野蛮barbarieについてある区別を持ち込む「繊細な」なディスクールであり、結果的には大きな地位を獲得するが、統辞においてはこれまでの二つのディスクールほど目覚ましい性質のものではなかったことようである。

 このディスクールは、Ordonnance des rois de France de la troisieme race(1769, 1776)を著したL.G.O.F de Brequignyや、Discour sur la feodalite (1791) を著したJ.-F.Chapsalが提起したものであり、ゲルマンの野蛮とガリアの野蛮を区別する。ゲルマンの野蛮は克服すべき悪しき野蛮であり、ガリアの野蛮は自由をもたらすよき野蛮である。

 野蛮のうちにこの区別を持ち込むことで、二つのことが可能となる。まず、ブーランヴィリエはゲルマンが自由をもたらしたと主張していたが、この自由をゲルマン民族の特性から分離することができる。第二に、ローマ性と絶対王政を分離することができる。これはガリアにおいて絶対的な専制がつきものなのではなく、ガリアで自由が可能であることを主張するものとなる。

 Mably の議論は、民主制とゲルマンの自由を分離していたが、この第三のディスクールは、ガリアに固有の自由の可能性が存在していたことを指摘しながら、王政の成立を見直そうとする議論だと考えることができるだろう。

 フーコーは、一九世紀の歴史家たち、チエールやギゾーたちは、ローマ帝国の政治システムが二層的なものであったことを主張しているが、それはこの第三のディスクールを引き継いだものと考えている。このディスクールによると、ガリアの上部構造には、絶対王政に等しいものが存在していた。ローマ帝国の支配下にあったからである。しかしローマ帝国は、ガリアの民に対して、自らの国家を組織することを許したのであり、フランスはガリアとケルトの民に固有の自由の原理に基いて、社会を構成していたということになる。

 この古代的な自由は、ゲルマンの自由とは異なるものであり、ゲルマンの森の中ではなく、「都市」のうちに成立した。そしてこのガリアの自由の都市で成立したものであるために、政治的で歴史的な力を発揮するようになる。もちろん民族の大移動に伴って、フランク族やゲルマン族が古代的な都市を破壊する。しかし放浪する農民であるこれらの野蛮な民族は、都市の価値を無視し、野外にとどまる。

 このために都市は復興し、その富を獲得するようになる。その後の封建制の長い期間を通じて、都市は上部から富を簒奪しようとする王や貴族たちに抵抗し、自分達の権利を支配者たちに認めさせるようになる。

 フーコーが指摘するように、この第三のディスクールは、第三身分の理論にそのままつながるものである。第三身分は王と貴族たちに対抗し、そして教会に対抗しながら、自分たちに固有の権利を主張し、それを貫き通したのであり、その根拠はこの第三のディスクール、ガリアに固有の自由を主張し、それがゲルマンの自由とは異なるものであり、都市の権利として維持されたという理論に求められるからである。

 フーコーは、歴史的な分析の内部において、都市の歴史、都市の制度の歴史、富とその政治的な効果の歴史を明確に構造だてながら議論できるようになったのは、これがはじめてであり、ここにこの第三のディスクールの重要な貢献があると指摘する。

 このディスクールにおいて、第三身分が王の譲歩によってではなく、自らのエネルギーに基いて、その富、交易、都市の権利に基いて、自らを構成してきたことを主張することができるようになる。そしてその根拠が、絶対王政にあるのではなく、古代的なガリアの自由にあることが示される。

これまではゲルマン性に対抗するローマ性は、ローマ帝国から支配の権利を引き継いだ絶対王政が独占し、その権力を誇示してきた。それに対抗する論拠としては、ゲルマンの野蛮しかなかったわけである。しかしこのディスクールが確立されてからは、ブルジョワジーはゲルマン性ではなく、ローマ性を自己の権利の根拠として利用することができるようになる。フランス革命は、この延長線上に可能になるのである。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)