アレントの初期
=アレントの生涯と著作(一)
(中山 元)

●1906年
 アレントは1906年10月14日に、ハノーヴァーで誕生。父親はパウル・アレント、母親はマルタ・アレント。役所に届けた名前は、父方の祖母の名前をとって、Johanna Arendtとしたらしい。両親ともケーニヒスベルク出身の同化ユダヤ人だった。

 両親は二人とも、十代に社会主義者となった。父親はエンジニアだったが、学問好きでギリシアとラテンの古典の書籍が豊富にあり、アレントは少女時代にこれを熱心に読んだという(EYB:9)。母親は、熱心な社会民主党員だったらしい。

●1909年
 この年、一家はケーニヒスベルクに転居。ハンナの一家は、両親が社会党の支持者でもあり、宗教的な雰囲気は薄かったらしい。それでも祖父がアレントを定期的にシナゴーグに連れていっていたらしいし、知り合いのラビが週に何度もハンナのもとを訪れて、ユダヤ教のレッスンを与えていたらしい。幼いハンナは「あたしはラビと結婚するの」といっていたらしい。そして母親にそれじゃ豚肉が食べられなくなるわよと脅かされると、「豚肉つきのラビと結婚するの」と言い返したという微笑ましいエピソードがある。

 この町では反ユダヤ主義はそれほど激しくはなかったらしいが、ハンナの周囲にはやはり反ユダヤ主義の空気があったらしい。これについてアレントはあるインタビューで興味深いエピソードを語っているので引用してみよう(中山訳)。
   たとえば先生が反ユダヤ主義的な発言をしたとしますね。それは多くの場合、わたし個人についての発言ではなく、特に東部のユダヤ人など、他のユダヤ人についてのものでしたけど、そんな場合には、わたしはただちに席を立ち、教室から出て、家に帰り、すべてを正確に記載した報告を作るように指示されていました。そして母が、いつものように学校に書留で手紙を書きます(母はこうした手紙をたくさん書いていました)。そしてわたしに関しては、この件は決着ずみになります。わたしは一日学校をお休みできますし、もちろんこれはとても素晴らしいことです。しかしこうした反ユダヤ主義的な発言が他の子供たちによってなされた場合には、わたしは家ではこれについて話すことを認められていませんでした。それは無視されたのです。子供の発言については、自分で自分を守るのです(PIPER:52-3)。

 アレントは「家では完全に守られて」(Ibid)いた。家庭の内部は、私的な領域であり、両親が醸し出す雰囲気と方針のもとで、ハンナは暮らしている。そして学校での子供たちとの付き合いは、いわば社会的な領域であり、ここではハンナは両親に頼らずに、社会の成員の一人として生きていくことを学ぶのである。しかし教師が教室で生徒たちに発言する内容は、政治的な意味の発言であり、これに対しては、未成年ではなく、政治的に行動する権利のある両親が行動する。成長した後の回顧的なまなざしで語られているが、アレントは一生を通して、こうした領域的な区別についての明確な意識を保ちつづけていたようだ。

●1913年
 父親のパウルが病死。伝記によると、アレントは大きなショックを受けたらしい。幼い頃の父親喪失が、ヤスパースへの思いいれになっているという説もあるほどであるが、こうした説明はあまり真にうけたくはない。この年に、小学校に入学。

●1914年
 第一次大戦の勃発。ロシア軍が東部戦線のケーニヒスベルクに近付き、アレント一家は急いでベルリンに移転。アレントはこの年の秋に、ベルリン郊外のシャルロッテンブルクにある女子校に転校。

●1918/1919年
 敗戦にともなうドイツ革命、ワイマール共和国の成立。この時期に、アレントの家は、社会民主党員の会合の場となっていたらしい。母親のマルタの組織はスパルタクス団とは対立関係にあったが、1919年初めにスパルタクス団がゼネストを決行すると、マルタはこれを支持。娘に「これは歴史的な瞬間よ」と叫んだという(EYB:28)。マルタはローザ・ルクセンブルクの熱心なファンで、この敬愛の念は娘にも受け継がれた。

●1920/1924年
 アレントは教師のボイコット問題で、学校の方針に従わず、退学になる。しかし独学で1924年に大学入学資格試験(アビトゥア)に合格。アレントは娘時代からすばらしい記憶力を発揮し、成績は優秀だった。多数の詩を暗唱しており、自らも詩作をしている。ロマンティックな感情と、不安や喪失感に満ちた作風。

 また大学入学前に、キルケゴールを読んでほれ込み、大学では神学を専攻することを決めていた。また1922年頃に、カントの『純粋理性批判』と『理性の限界内の宗教』を読んで、哲学への嗜好を深めている。同じ頃、ヤスパースの『世界観の哲学』を愛読。

 1924年の秋に、マールブルク大学に入学。大学で「隠れた王」ハイデガーを発見。ハイデガーは1924/25年の冬学期には講義ではプラトンの『ソフィステス』と『フィレボス』の読解を、セミナーでは『中世の存在論の演習』としてトマス・アクィナスを教えている。1921年の夏学期にはアウグスティヌスと新プラトン主義を講義で教えていることも、注目される。

●1925年
 ハイデガーとの「恋愛」の開始。2月10日にハイデガーは、アレントに最初の手紙を送っている。礼儀ただしい書簡でありながら、アレントの知性と魂の特質を褒めたたえ、アレントへの学問的な援助を申し出るとともに、学問に身を捧げる男性の孤独を理解してくれるよう訴えているという。さらに2月14日にはハイデガーは、アレントに「親愛なるハンナ」と呼びかける書簡を送る。2月末日、ハイデガーは別の手紙を送る。エティンガーによると、親密な肉体的な関係の存在をうかがわせる書簡だという。この年の夏に、アレントはハイデガーへの「贈物」として「影」という詩を捧げる。苦悩に満ちたセルフ・ポートレート(EYB50-1)。

●1926年
 1月にハイデガーは、アレントにマールブルク大学を離れるように勧告。アレント自身もマールブルク大学から離れたがっていたが、ハイデガーのこの書簡は、自分の安全のためにアレントを遠ざけようとするけはいを示しているという。春に、アレントはハイデルベルクに移る。ただし「恋愛関係」は続いていたらしい。

 ハイデルベルクには『世界観の心理学』のヤスパースがいた。ヤスパースはキルケゴールから強い影響を受けていただけに、アレントにとってはハイデガーの存在論よりもつきあいやすい教師だっただろう。そしてアレントとヤスパースは、教師と生徒という関係を越えて、家族ぐるみの友人となり、ヤスパースがなくなるまで、この絆は保たれる。

 ヤスパースは精神医学の名著『精神病理学総論』を一九一三年に出版して名を上げたが、心理学から哲学に専攻を変えることを希望していた。しかし心理学の分野での資格しかないために、『世界観の心理学』(一九一九)というタイトルで哲学の書物を出版。これはさまざまな哲学を世界に対する態度(世界像)として分析する書物である。ヤスパースは一九二一年にやっと哲学の分野での正教授になっている。ただアレントに出会った時期は、まだ哲学の分野での主要著作『哲学』(一九三二)の発表前で、少し鬱屈していた頃のようだ。

 この頃、アレントはシオニストのクルト・ブルーメンフェルトに出会い、その博識、活力、センチメンタルさのないイロニックなユーモア(EYB:71)を尊敬し、賛嘆するようになる。ブルーメンフェルトとの関係は長く続くことになり、アレントは彼のユダヤ人問題の解釈に強く影響されることになる。

●1928年
 4月、ハイデガーはアレントに愛人関係を続けられなくなったと通告。ハイデガーはフッサールの後任の教授に昇任するための地位固めを考えたか、新しい崇拝者(エリザベート・ブロッホマン)が登場したためとエティンガーは考えている。

 アレントはハイデルベルク大学で哲学博士号を取得。博士論文は『アウグスティヌスにおける愛の概念』。この書物はアウグスティヌスの愛の概念の矛盾に注目しながら、さまざまな愛の概念の運動を分析しようとする野心的な書物。ヤスパースはあまり高く評価しなかったようだが、彼の『イエスとアウグスティヌス』よりは、はるかにおもしろい。アレントの思考の基本的なパターンがすでに示されていて、後年の理論と照らし合わせて読むと、非常に興味深い書物である。いずれ暇があれば、内容を詳しく検討してみたい。

001□Der Liebersbegriff bei Augustin: Versuch einer philosophischen Interpretation
 Berlin: J. Springer, 1929
→英訳 Love and St.Augustin
   Chicago: University of Chicago Press, 1996
 この英訳は、後年のアレントによる改訂を加えたバージョン。編者による長文の解説も参考になる。


●1929年
 アレントは、2月頃からハイデガーのマールブルく・セミナーで出会っていたギュンター・シュテルンと同棲しはじめる。最初はベルリンで、その後はベルリン郊外の小さな町Berlin-Halenseeで。

 アレントはヤスパース、ハイデガー、ティベリウスの推薦状をもらって、ドイツ・ロマン主義を研究するための奨学金を取得したが、この収入では二人で暮らすには不十分だったらしい。アレントはこの年に博士論文を出版しているが、ブラック・マンデーの年でもあり、生活は苦しかったようだ。ダンス・スタジオのある建物の二階の小さな一間の部屋で暮らしていたが、夕方になるとスタジオのレッスンのために部屋を明け渡さねばならなかったというから、つましさが想像できよう。九月には二人は正式に結婚。

●1930年
002□Augustinus und Protentantismus
Frankfurter Zeitung 75 (1930-12-04)No.902, P.1
→英訳 Augustine and Protestantism, Essays in Understanding, P.24-27
 この文章でアレントは、カトリックの世界ではアウグスティヌスの没後500周年を大々的に祝っているのに対して、プロテスタントの世界ではほとんど忘れられていることを指摘しながら、宗教改革まではアウグスティヌスはどこでもよく読まれていたことを指摘している。そしてアウグスティヌスから、「魂」が内的な心の世界として重要な意味をもってきたことのであり、過去を保存する記憶が重視されるようになったことを強調する。アウグスティヌスは『告白』で自分の過去を語りながら、すべての人が同じように回心することで、神に近付き、救われることができることを示すのである。

 この記憶の重要性については、アレントは後にも繰り返し指摘するが、この文章の論点は、アウグスティヌスのこの過去の「告白」の意味がキリスト教の世界では分裂して受け継がれたことを指摘することにある。皮肉なことに、カトリックの世界では、信徒は教会に告白する。教会は神と信徒の間に立ちふさがる。これはアウグスティヌスの『告白』の目指したこととは正反対のことであり、逆説的なことに、プロテスタントの世界でルターがこの告白の儀礼に反対し、キリスト者の信念と神に直接対面することの重要性を強調するようになる。アレントはこの文章をドイツの敬虔主義、ゲーテ、ドイツ・ロマン主義への言及で閉じている。個人的な記憶が物語として、内的な変身の物語として語られることの意味を考えているようだ。

003□Philosophie und Soziologie: Anlaesslich Karl Mannheim, Ideologie und Utopie
Die Gesellschaft 7 (1930), No.1, P.163-176
→英訳 Philosophy and Sociology, Essays in Understanding, P.28-43
 これは同年に出版され、話題になったマンハイムの『イデオロギーとユートピア』の論評で、社会主義系の雑誌に掲載された。母親のマルタの友人だった編集者は、この書物が社会主義にとって脅威となるのではないかと考えて、批判的な分析を依頼したらしい。

 マンハイムは社会で既存の勢力を維持しようとする集団はイデオロギーを利用し、改革を目指す集団はユートピアを利用すると主張。いずれにせよマンハイムは、現代のすべての思考は、状況に依存するものだと主張するわけであり、思想を特別の政治的な立場に結び付けて考えようとするものである。

 アレントは、マンハイムの理論を哲学にあてはめると、哲学を社会のさまざまな状況から解読できることになることを指摘する。哲学の目指すものが、さまざまな状況の背後にあるものを理論的な考察しようとするのに対して、社会学はさまざまな理論の背後にある状況を取り出そうする。ハイデガーの用語を借りながら、アレントは哲学は存在論的なものが存在的なものよりも優位にあると考えるのに対して、マンハイムの社会学は存在論的なものよりも存在的なものが優位にあると考えることを指摘する。この社会学の方法は、哲学における絶対者や実存の概念を、イデオロギーと考えるわけである。この力のこもった長文の書評でアレントは、これが認められれば哲学に対して破壊的な影響を及ぼすと考える。いわば雑誌の編集者とは異なる見地から、この書物の「脅威」をみいだしたことになる。

  社会学が哲学にとって脅威となるのは、それが世界を人間の実存の形式的な構造としてではなく、その特有性においてしか研究できないと主張する時点からである。これは存在の存在論的な理解の可能性を疑問とするものである。人間の実存の存在論的な構造は、疑問の余地のない形で不変なものととして存在する限りで(たとえば飢餓や性がその一例だ)、まさに重要ではないものとなり、わたしたちにかかわりのないものとなってしまう。わたしたちが自分たちの実存を理解しようとするすべての試みにおいて、わたしたちは変動し続ける存在的な領域に投げ返されるのであり、この存在的な領域こそが、哲学者の「理論」に対立する真の現実となるのである。マンハイムは明言しないが、彼は思考に対しては原則として現実性を認めないのである(Essays, P.32-3)。

 アレントはマンハイムの議論にいくつかの穴をみつける。どれもアレントのテーマにかかわる重要な問題点となる。まず最初の問題は、孤独の意味である。思考は孤独な営みとして発生するが、社会学では孤独を否定的にしか理解しない。孤独は公共的な生からの離脱であり、現在からの逃避であるか(イデオロギーの場合)、将来への逃避(ユートピアの場合)にすぎない。

 第二は超越の問題である。マンハイムは超越をイデオロギーかユートピアとして否定的に捉えるが、イデオロギー的にもユートピア的にならずに世界を超越する可能性があるとアレントは考える。それが終末論的なキリスト教的な同胞愛の概念である。アウグスティヌスの隣人愛は、世界を変えようとしないからユートピア的ではないし、イデオロギー的に世界から逃避しようともしない。

 それでいてこうした愛が世界を作り替えることもある。アレントはウェーバーを引用しながら、宗教的な世界理解が、異なった形の超越であることを主張する。プロテスタンティズムという宗教的な孤独と世界理解は、世界から超越することで世界を作り替えていったのであり、思考の力が世界を動かすことを示したはずではないか。

 第三の論点は、マンハイムのイデオロギーとユートピア論を歴史的に位置づけようとするものであり、こちらの方がマンハイムの議論には有効だろう。アレントは、すべての思考をイデオロギーかユートピアに分類できると考えるのは、思考が上部構造であり、これが経済としての下部構造に規定されると考えることができる時代が到来したからだと指摘する。しかし下部構造としての経済という概念は近代的な思考の歴史の一部である。この考え方は近代以前の思想には適用できないはずだというのがアレントの主張である。

 アレントは最後に、社会学的な分析が歴史的に正統なものとなる実存的な状況を分析する必要があると主張してこの論文を終える。社会学が哲学をイデオロギーかユートピアにすぎないと主張することに、ひとつの歴史的および実存的な意味を読み取ろうとするわけだ。哲学を否定する議論は、哲学的な分析を必要とすることを主張することは、哲学の重要性を示すことになるから、アレントはこの主張でマンハイムに反論したことになるのである。

 全体としてアレントはこの書評ではマンハイムの理論の説明に力を注ぎ過ぎているような印象があるが、最後のところでつじつまはあっている。共同の世界から離脱した孤独な思考の力と、超越としての愛の力が、哲学を救うための装置として提示されているからだ。

004□Rilkes "Dunineser Elegien"
Neue Schweizer Rundschau 23 (1930), No. 11, P.855-871
 未見だが、これはギュンターとの連名の論文で、リルケの『ドゥイノの悲歌』の分析である。アレントはリルケは好きだったようだ。

●1931年
005□WEIL, Hans: Die Entstehung des deutschen Bildungsprinzips
Archive fur Sozialwissenschaft und Sozialpolitik 66 (1931) No.1, P.200-205
 書評。この書物は、理想に向かっての発展(教養)という概念と、「内的な可能性の発展」という十八世紀後半のドイツの二つの教育概念を取り上げたものらしい(EYB:93)。著者はヘルダーとフンボルトにおいてこの二つの概念がどのようにして混ぜ合わされ、ドイツの教養のあるエリート(Bildungselite)に採用されたかを検討する。

 アレントはこの時期に『ラーヘル』の著作に集中しており、この書評もその一環で書かれているようだ。アレントのヘルダーやレッシングなどのドイツの啓蒙の思想家に対する好みは、この時期から顕著なようである。

 この頃からアレントは、学問的な作品よりも現実の世界の出来事に注目し始める。時代の雰囲気は反ユダヤ主義のきな臭い匂いを漂わせ始めている。すでにナチスは社会民主党に続く第二の政党になっていた。そしてブルーメンフェルトと頻繁にあっていたアレントは、シオニズムとユダヤについての理解を含めている一方で、マルクスやトロツキーを読み始める。シオニズムは同化を批判するだけに、アレントはラーヘルについて論じながら、ドイツの社会における自分の位置についても考えざるをえなくなるわけだ。

 夫のギュンターはブレヒトなどの共産党グループの友人に囲まれ、アレントはブルーメンフェルトなどのシオニズムの友人に囲まれている。シオニストたちは共産党を「赤い同化主義者」と呼び、国際的な共産主義運動を志向する共産党はシンニズムを一種のファシズムと考えていたようだ(EYB:99)。伝記では、そこにアレントと夫の疎遠の原因をみている。

●1932年
006□Adam-Muller-Renaissance?
Kolnische Zeitung (1932-09-13), No.502
 ライプチヒの出版社Friedlich BulowがAdam Mullerのテクスト集を出版したことについての文章。

007□Aufklarung und Judenfrage
Zeitschrift fur die Geschichte der Juden in Deutschland 4 (1932)
No. 2-3, P.65-77
→Die verbogene Tradition, P.108-126
 ヤスパース宛ての書簡(1933-01-01)によると、この論文は編集部から大幅に省略されたという。この論文でアレントは、Weilの書評と同じような視点から、啓蒙とユダヤ人の同化の問題を取り上げる。これまでの同化ユダヤ人がドイツの社会にどのような姿勢を示したかを分析しながら、啓蒙の理念について考察する。取り上げられるのは、メンデルスゾーン、レッシング、ヘルダーなどのおなじみの思想家だ。

 注目されるのはヘルダーの啓蒙批判だろう。宗教を啓蒙の手前で考えたレッシング、ユダヤ教の真理を信じ続け、啓蒙と対立しないと考えたメンデルスゾーンとは異なり、ヘルダーは社会的な経験を考慮にいれない啓蒙の原理(自分で考える)は非現実的だと考える。啓蒙の原理は同化ユダヤ人が直面している問題を考察する上でやくだたないし、過去の歴史を保存することもできない。啓蒙の原理を受け入れることで、どうユダヤ人はドイツの社会に人間として加わる自由を確保できると考えたのだが、ヘルダーはユダヤ人はその歴史によって現代に結び付けられているのであり、それを無視すべきではないと考える。アレントにとってはこれは啓蒙の原理による同化の批判のための論拠となりうる。もっともアレントは後に、レッシングの啓蒙の原理についての見方を変えることになる。

 この論文でアレントは、同化ユダヤ人の歴史を簡単に描いている。第一世代の同化ユダヤ人はメンデルスゾーンの世代であり、ユダヤ教が真理であり、ユダヤ教の教えを守りながら、所属する市民社会の習慣に従うべきだと考える。第二世代の同化ユダヤ人は、メンデルスゾーンの弟子のフリードレンダーの世代であり、もはやユダヤ教に執着せず、社会への参加を求める。この世代にとってはユダヤ人であるということは、特殊な意味をもたず、社会への参加の障碍にすぎない。この世代はユダヤ人から奪われている人間としての尊厳を求めるのである。

008□Berliner Salon
Deutscher Almnach fur das Jahr 1932, Reclam, P.173-184
→Essays in Understanding, P.57-65
 ラーヘルのサロンの紹介。フランス革命から1806年のナポレオンのベルリン征服まで続いたベルリン・サロンについて、ユダヤ人の女性が貴族、高名な政治家、学者を集めたサロンを開くことができた理由を説明する。ユダヤ人は社会の外部にいる存在であるために、かえってどのような規則にも従わないために、人々が集まる場となりえたのである。アレントはこの時代のサロンを支配した奇妙な格律と雰囲気を巧みに描き出している。

 ラーヘルの前には1780年代に、啓蒙の原理に支配されたヘンリエッタ・ヘルツのサロンがあった。このサロンは道徳主義的な格律を採用していたが、ラーヘルのサロンは啓蒙の原理ではなく、ロマン主義の原理を採用していた。このサロンの役割は、ゲーテを自分達の感情を表現するスポークスマンとみなして、「ゲーテ崇拝」の風潮を作り出したことにある。

 1806年に神聖ローマ帝国が滅亡すると、ラーヘル型のサロンはなくなり、非常に閉鎖的なサロンが登場する。これは政治的な性質のサロンであり、サロンの名前をかりた議論のためのクラブのようなものとなり、女性もユダヤ人も排除されるのである。

009□Freidrich von Gentz: Zu seine 100 Todestage am 9. Juni
Kolnishe Zeitung (1932-06-08)
→Essays in Understanding, p.50-56
 ゲンツの死後100周年のエッセー。フランス革命とナポレオンを敵とした政治家だったゲンツは、ラーヘルのサロンのメンバーだった。アレントはゲンツの生涯を、簡単に振り返りながら、啓蒙とロマン主義の時代の子であったゲンツが、その原理に対立する理論を展開した両義的な人物であったことを描いている。ゲンツはロマン主義の情熱にかられて、世界の出来事を目撃し続けるという作業に従事したのだとという。

010□Soren Kierkegaard
Frankfurter Zeitung, 75 (1932-01-29) No,75-76, P.2
→Essays in Understanding, p.50-56
 キルケゴールの死後75周年に書かれた文章で、ドイツでは第一次世界大戦まではキルケゴールが受け入れられなかったことを指摘し、そのための地盤がなかったと指摘する。キルケゴールの哲学は反体系的な哲学、個人を重視する哲学であり、ニーチェ、ベルクソン、ディルタイ、ジンメルなどが、ヘーゲルの哲学と異なる哲学の道を開いた後でなければ受容されなかったと考える。短文だが、アレントはここでニーチェとキルケゴールがドイツのロマン主義の帰結を示していると考えていることに注目したい。世界と生の豊穣さを美的な可能性とみたロマン主義に対して、キルケゴールはこれを実存の本質的な問題として捉え直したと考えるのである。

010□Brief Rahles an Pauline Wiesel: Zum ersten Male Veroffentlicht von Hannah Arendt
Deutscher Almnach fur das Jahr 1932, Reclam, P.173-184
 008の付録として公表。



注:
アレントの伝記的な細部と著作の出典については、主として次の文献に依拠しています。
Hannah Arendt Ich will verstehen, Piper,1996 (PIPER)
Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt, for Love of the World, Yale University Press, 1982 (EYB)
 なお、ハイデガーとの恋愛関係については、エティンガー『アレントとハイデガー』を参考にしました。