南島論の検証

住谷一彦・クライナー・ヨーセフ『南西諸島の神観念』未来社、一九七七年








奄美の島々の現地調査に基づいて、柳田・折口が提示した南島論を検証し、これまでの日本民俗学の想定した南島の神観念とは違う像を提示しようとする野心的な著作。巻頭の多数の写真も貴重で、ぼくたちにはもはや縁が遠くなった宗教心のありかを思わせる。バリ島などで、まだ生活のうちに根差して生きていた神信仰が、しばらく前までは、日本の南西諸島には存続していたことをうかがわせる。



ただし本の作りとしては、何度も同じことが繰り返されていて、すっきりしない。ニライの観念については、柳田は根の国がもとは常世の国で極楽の位置にあり、その後死の国になったと考え、伊波普猷はニライがもとは死の国だったが、それがよい国に変わってきたと考えるが、そのどちらも「定向進化」(15)で考えているが、それではうまく解釈できないこと、原田敏明の「宮座」論を手掛かりに、日本にも「高き神」の概念があることを打ち出したいわけだから、もう少し作りを工夫してほしかった。スナック「ポピー」の話しなどは、いらないのでは(笑)。まあ、臨場感はでますけどね。

それはともかく、新城島の「アカマタ・クロマタ」の祭りが、生をもらたす神の側面と、死をもらたす神の側面があり、来訪神と滞在神の二面性をそなえているという指摘はおもしろい。ただ原田の「宮座」の理論を手掛かりに、氏子の氏神はただ一人であることを確認して、「これをポジティヴに表現すれは、「宮座」の神は唯一神であり、同時にその信仰の同じレベルで他の神を拝することを厳しく拒否する絶対神である」(181)と簡単に結論できるのか。かなり疑問である。唯一神の信仰としても、相対的な唯一神にすぎないし、絶対的な神ではないはずだ。

ところで本書の第三部のパティローマの部分は、まとまった論考で読み応えがある。パティローマは波照間島のことであり、独自の祭りと起源神話までもっていて、すごい。古代からかなりの文化が栄えたところなのだろうか。起源神話では、世の始まりの際に、ただ二人の兄妹がミシクの洞窟に隠れ、油雨の大洪水に耐えて生き延びたのだという。二人は性行為に無知であったため、最初に生まれたのはボーズという毒魚だったという(248)。

ここで「無知」というのは何を意味するのか、古事記的な女性優位を意味するのかどうかは、書かれていないのでわからない。奄美列島では、女性が巫女になって、宗教行為にかかわるのでは、そんなことはないかもしれない。ただ日本の近海には、アブラボウズという魚がいて、食べると下痢をするらしい。北の魚らしいが、最初の失敗作が魚というのが、おかしい。次は百足で生まれ、最後にやっと人間が生まれるという神話だ。

このパティローマの奄美ノロの神観念は、ナルコ・テルコ神のように、海の彼方や天、神の山を往還する神の観念、地域でつねに祭られる地域神の観念、村で祭られる村の開祖としての族祖神または家の先祖神という神観念の三つが複合しているという指摘(308)は、よくわかるし、無理に絶対神にもっていこうとしないだけ、まっとうに聞こえる。もう少し構想を練れば、もっとおもしろい本になったと思う。ふと、吉本隆明の南島論を読み直したくなった。

データ
タイトル 南西諸島の神観念
責任表示 住谷一彦,クライナー・ヨーゼフ著
出版地 東京
出版者 未来社
出版年 1977.12
形態 363,23p ; 22cm
入手条件・定価 4200円
全国書誌番号 78006854
個人著者標目 住谷, 一彦 (1925-) ‖スミヤ,カズヒコ
個人著者標目 Kreiner,Josef (1940-)
普通件名 民間信仰 -- 鹿児島県 ‖ミンカンシンコウ -- カゴシマケン
普通件名 民間信仰 -- 沖縄県 ‖ミンカンシンコウ -- オキナワケン
団体名・地名件名 南西諸島 ‖ナンセイ ショトウ
NDLC HK38
NDC(6) 385.1
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001364399



2003年11月4日
(c)中山 元

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