古代小説の三類型

ミハイル・バフチン『小説の時空間』北岡誠司訳、新時代社、一九八七年





バフチン著作集の六巻の本書は、ギリシアの小説から古代の伝記と自伝、フォークロア、騎士道小説、ラブレーにいたる小説の時空のクロノトポスを考察する。クメノトポスは空間と時間の複合であるが、文学では「空間上の特徴と時間上の特徴とは、意味をもつ具体的な全体の中で融合する。……時間の特徴が、空間のなかでその本質をあらわにし、空間は、時間によって意味づけられ計測される」(8)と考えるのである。


バフチンは古代小説を三つの類型で考える。時間を軸に考えるこの分類はなかなかわかりやすい。まず「試練の冒険小説」がある。これは二世紀から六世紀までの「ギリシア小説」と「ソフィスト小説」が含まれる。ヘリオドロスの『エティオピア物語』アキレウス・タティオスの『レウキッペーとクレトポーンの物語』、カリトンの『ケレアとアリエロの愛の物語』、クセノポンの『エペソス物語』、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』が有名だ。

この類型では美男・美女の主人公が望まぬ結婚を強いられようとして、逃亡するか、引き離される。そしてさまざまな出来事や障害を克服して、最後には結婚する。この最初の時間と最後の時間の間に、主人公たちは「成長」しない。試練をうける二人は自己同一性を確認し続けるのである。最初の時間と最後の時間の間には、まったく時間が存在しないかのようである。しかしこの無の時間のうちで、二人はさまざまな場所をへ巡り、さまざまな事態を経験し、試練をうける。作者はこの紆余曲折をいかに巧みに構築するかを問われると同時に、この無の時間のうちに、百科全書的な多量の情報をつめこむことができる。
第二の類型は、「冒険風俗小説」であり、ペトロニウスの『サテュリコン』とアプレイウスの『黄金の驢馬』である。初期のキリスト教文学の聖者伝にもこの変形があり、罪ある生活、危機、生まれ変わりという筋となる。ここでは主人公は異国をさまようのではなく、日常の生活において「冒険」を経験する。アプレイウスでは主人公がロバに変身することで、日常の生活において、さまざまな冒険をする装置が作られる。主人公は罪を犯し、そのことで処罰され、贖罪を経験することで、至福にいたるのである(77)。

しかしこの主人公の時間は個人としての時間であり、周囲の世界にいかなる痕跡も残さない。「人間の運命と周囲の世界とのあいだのつながりは、外面的な性格をもつことになる。人は、世界となったく無関係に変わり、変身を経験する。他方、世界そのものは、代わらぬままである」(79)。またロバは私生活をのぞきみる。ロバの前では人は秘密を隠さないからである。これが後の悪漢小説につながることになる。ディドロの『ラモーの甥』もこの伝統にある。

このギリシアの小説のクロノトポスは、ギリシアというポリスの特殊性によるところが多い。古代のアゴラは裁きの場であり、あらゆる学問が営まれる場でもある。しかもそこに市民のすべてが登場する。「そこには、最高の位置を占めていたもののすべて、国家から真理にいたるまでのすべてが、具象化されて具体的に示され、目に見えるかたちで存在していた。しかも、この具体的で、いわばすべてをふくみこんだクロノトポスのなかで、市民の生涯の全体が開示され再検討され、全市民による公の検証がおこなわれたのである」(104)。すこし補足が必要だが、これはまったく適切なコメントである。

いわば「余すところのない外在性」のうちでは、伝記と自伝の区別がない。ところがローマの時代から、この二つが分離してくる。そこに第三の類型「伝記小説」が登場する時が開かれる。古代の伝記には、エネルゲイア型と分析型がある。エルネゲイア型では、人間の行為、発言、その他の外に現れたものを表現することで、エネルゲイアとしての、現れ賭しての性格が描き出される。この典型はプルタルコスである。ここでは時間は性格を開示するものであり、人間の生成と形成の時間ではない(121)。伝記の時間は、性格が完結に向かって行く道にすぎない。

分析型では、伝記の素材をその当人の社会生活、家庭生活、友人との関係、発言、前項、罪、癖などに分類して、さまざまな時間のうちから分類し、まとめあげる。これはストエニウスが得意だった。ところでこの二つともある種の公的な意味をもっている。ここに孤独な自意識を描く形式はまだ存在していないが、いくつかのヴァリエーションが発生する。一つはアイロニーを加味するもので、ホラティウス、オヴィディウスなどの伝記がある。次は友人間の手紙という形で、いわば「室内的なレトリック」が利用されるのである(125)。キケロのアッティクスへの手紙だ。第三は自己との孤独な対話であり、アウグスティヌスの『自省録』にいたるまで、多数の著作がある。ここでもあくまでも公的な自伝という意味は失われていない。

あと第六章の悪漢論が秀逸。ラブレー論も力が入っているのだが、306ページ310ページにかけて、2ページずつ規則的に白紙になっている。印刷所のミスだろうが、再版の望めないこのような著作で、これほどの脱落をみたのは初めてで、残念なことだ。貴重な翻訳だけになんとも惜しまれる。
2003年10月19日
(c)中山 元

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