ギリシアにおける非理性の変遷

E・R・ドッズ『ギリシア人と非理性』岩田靖夫・水野一訳、みすず書房、一九七二年





もう古典的になった一冊。ギリシアというと、理性的な世界と考えられることが多かった頃に、ギリシアの世界のうちに含まれる非理性の要素を説得力をもって描き出したことで有名になった。今ではギリシアのうちの非理性の力が強調されることが多いので、読みながらときに不思議な気持ちがするが、それもドッズを始めとした学者の力が大きかったのだ。当時の理解にあわせるために、ときに現代との比較が多すぎる印象があるが、いまなお興味深い一冊である。

予想外なことではあるが、この書物はアルカイック期からホメロスを通じて、五世紀のギリシア、プラトンの時代、そしてその後の哲学的にも呪術的なところまで「衰退」していった状況まで、時代の変遷をたどりながら、ギリシアにおける非理性的なものを追いつづけている。


ドッズはデルフォイに代表されるような神懸かり的な予言が、古代のギリシアではよくみられたことを指摘しながら、古典時代にも、その後も、ある種の私的な霊媒術がつづいたことを指摘しながら、それが「腹話術」「ピュートーン」と呼ばれたことを明らかにしていておもしろい。エウリュクトスという男は、プラトンとアリストテレスが言及しているほどだが(Ar Vesp. 1019, and schol: Plato, Soph, 252C and schol)、この男は自分自身の中に第二の声をもっていて、その声と対話をしていたらしい。この声はダイモーンであり、ライブラリを予言するという(88)。

またアポロンとデュオニュソスはギリシアでは補完的な役割をはたした。ドッズは「社会的必然性」と呼ぶ。アポロンは、父の神に従い、人間としての分際を心得ることで安全を約束する。ディオニュソスは信徒の群れにはいり、違いを忘れれば、自由になることを約束する。集団ヒステリーに参加させることで、非理性的な衝動を開放させ、それを沈静する(93)。

また輪廻についての指摘もおもしろい。ピュタゴラスにいたるまで、古代のギリシアでもシベリアのシャーマンでも、輪廻に力を生み出す。特権者だけが輪廻するときには、それは能力の強化をもたらす。しかし人間のすべてが輪廻することなったとき、それは「特権ではなく重荷になる」(186)。ソクラテスとともに「プシュケー」が死後も存続することが確立されたが、これは複雑な問題をはらんでいるわけだ。

人間の魂がさばかれ、悪人は死後は地獄にゆくと考えることは、この世で悪がはびこることの理由を説明し、弁神論ともなる。しかしそこでは人間は死後の魂を配慮することを強いられるために、生前において大きな重荷を背負うことになる。この重荷から自由であったのエピクロスなど、少数の思想家にすぎない。ドッズはプラトンがこのプシュケーから形而上学が作り出したことに注目する。この観念を啓示の地平から理性的な議論の地平に移し替えたことに、プラトンの「創造的な働き」があるわけだ(256)。

しかしドッズはプラトンが『法律』では大きなペシミズムに陥っていることを指摘する。結局は宗教的な恐怖、地獄の恐怖が、大衆を善に向かわせると考えているからだ。この問題はまだまだ考えるべきものを含んでいる。なお最終章の降神術の記述はおもしろい。古代末期に哲学がどのように呪術的なものになっていくか。新プラトン主義は、そのすれすれのところでとどまっているのだ。
2003年10月26日
(c)中山 元

ビブラリアに戻る