たぎるフィレンツェ

【書評】A・シャステル『ルネサンス精神の深層』
桂芳樹訳、筑摩書房、学芸文庫二〇〇二年一二月




もと平凡社で一九八九年にでていたもの。原題はマルシリオ・フィチーノと芸術で、原著は一九五四年刊行。もう古いものだが、フィチーノの人と作品について、いまだ類書の少ない研究書である。序論でフィレンツェのプラトン・アカデミーと、フィチーノをめぐる「人物群像」が紹介されているのもわかりやすい。

おもしろいのは、プラトニック・ラブというと、フィチーノのこのプラトン・アカデミーのことを思い出すが、実は最初は「霊肉双方」における若者愛が考えられていたことだ。だからソクラテスのアルキビアデスに対する愛とその肉体的な行為の自制が考えられていたわけで、現在のようなプラトニック・ラブのイメージではなかった(26)。

ポリツィアーノは、「若いギリシア青年に対する盲目的な恋から来る放埒な生活」(47)のために夭折したというから、必ずしも自制したわけではないのかもしれない(笑)。同時にこの愛においては、プロティノス的な意味での「肉体への恥」(62)という逆の霊的な情熱がうごめいていたことも忘れてはなるまい。

この霊的な情熱においては、光の形而上学があたりを威圧するまでになる。フィチーノによると「世界に放射する光は、それゆえに霊的な光の一つの形である。……フィチーノは概念が矛盾を来すようになるまで、すべての「光の思考」を追及する。……世界の光は神を証明する。しかしその光は、さらに燦然たるあの光の予感の前では、色褪せて消滅する程度の第一階梯の明るさに過ぎない」(203)のである。そして目は、「光の形而上的実在に近付くための特権的な道具」になるわけである(206)。

ついでにフィチーノの表情論にも注目。フィチーノはある絵画のニンフの表情を絶賛する人間の表情はこの絵のように純粋なものではありえない。「われらの内在する人間は一種類に過ぎないのにたいして、内なる禽獣は無数であるから」(223)。霊魂は、動物がわたしたちに示してみせる「衣装」のようなものだという。ここで芸術論とエロス論が統合されていくメカニズムがおもしろい。

天にもまた相貌があり、星座は天の表情だということになる。だから占星術は「人間の情念の辞書」のようなものとなる。なかなか壮大ではないか。ルネサンスの時代のフィレンツェのたぎるような集いが遠望できる好著だ


2003年8月18日
(c)中山 元

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