生き延びる意志

【書評】ヴィクトール・フランクル『夜と霧』池田香代子訳、みすず書房、二〇〇二年





ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』 、石原吉郎、プリーモ・レヴィなどともに、収容所体験を語った名著の新訳版である。あのような状況のうちで、どうやって生き延びることができるのか、ほとんど想像を絶するが、生き延びる意志をどこまでもてるかが左右する。「ムスリム」になってしまわない意志。

改めて読んでみると、「何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。言い人は帰ってこなかった、と」(5)という事実と、生き延びる意志をもちつづけることのあいだの曲芸のような営みのうちで、生者と死者が決まることがよくわかる。



収容所から戻って、ベッドに横たわる被収容者の写真に、ひとが「おぞましいじゃないですか」と語ると、「そうですか?」と答える筆者のいきちがい(79)も、そうした曲芸の日々の一こまの行き違いだろう。うまく手を尽くして、労働にでずに休養をとれた一日かもしれないからだ。

それにフランクルが語るように、収容所の生にあっても、きちんと身を処することはできるものらしい。「そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったか、収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見える。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ」(111)。力づけられるとともに、恐ろしいことでもある。ぼくはできればそういう試練はうけたくないが。

そして「この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪をわかつ亀裂が走っており、それはこの心の奥底にまでたっし、強制収容所があばいたこの深淵のそこにまで達していることが、はっきりと見て取れる」(145)という文章も引用しておこう。

また同時に、「このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということに対して担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚して人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ(134)という言葉には、力づけられる。そう言い聞かせなければ、収容所ではとても生きられないだろう。

「わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、天と契約を結んだ。つまり、自分が苦しい、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてこよくな深い意味に満たされていた。彼は意味なく苦しんだり死んだりすることを望まなかった」(139-140)。この男がだれなのか、自明のことだろうが、犠牲についての考察は重い。

2003年9月12日
(c)中山 元

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