プラトンとホワイトヘッド

【書評】藤沢令夫『自然・文明・学問』紀伊国屋書店、一九八三年





三本の論考、三つの対話、感想文で構成された一冊。「生命・倫理・自由」は、自由の概念の哲学的な考察。ギリシアにおける自由の概念は、三つの意味がある。政治的な自由、魂の自由、必然との対比としての自由である。最初の自由は、ポリスでの政治的な意味での自由で、奴隷に対比される。第二の自由は、たとえば欲望からの自由という意味で、プラトンなどにも頻繁に登場する。第三の自由は、運命の必然のうちで、自由意志とは無意味でないかという自由で、これはエピクロスとともに登場する。わかりやすい整理だ。



「学問と書物」は、書物、文字、エクリチュールについての古典的な説明。書物や情報が知ではないというまっとうな見解が表明される。「プラトンとホワイトヘッド」は、この書物ではもっとも読み応えがある。ホワイトヘッドは「有機体の哲学」で、イデア的な永遠的対象が、現実の世界の中に侵入することで経験的な世界の事象が成立すると考えるので、プラトン哲学を根本としている。

ところが西洋の哲学は主語と述語、個別と普遍、実体と属性の概念で対象を理解しようとする。これはわたしたちが直接に経験する世界に暴力を加えることである。空間は実体と実体の関係を表現するものではなく、属性と属性の関係を表現するものでないか。プラトンが『テアイテトス』で語った「各人に現在する情態』から世界を理解すべきではないか。世界は知覚的な性質に彩られ、価値と意味に浸透した世界ではないか。ホワイトヘッドはこのように近代の科学的な世界理解を批判する。

ところが彼はなぜか、プラトンとアリストテレスを一緒にして批判してしまうと藤沢は指摘する。プラトンの『ティマイオス』のコーラ論が、この属性からみる世界の描像を試みているところから、ホワイトヘッドがプラトンをよく理解していなかったと指摘するわけである。「Xのイデアの似像が場のここにうつしだされる」あるいは「進入する」と記述されるべき事態を描いていると考えるわけだ。ホワイトヘッドの誤解についてのわかりやすい説明である。

対談三本では、今西がロゴス中心主義と合理主義の違いを強調するところ、渡辺対談で、藤沢が価値という語がプラトンにも、ギリシア語にもないことを指摘するところ、野田対談で藤沢が現代の真理論と古代の真理論を対比するところがおもしろく読めた。

雑文では、大学が忙しくて暇がなく、山荘にこもる五〇日だけが集中できると語っているところに笑った。ぼくも精々数日だけだが、山に籠ることがある。新聞もインターネットもないと、実に集中できる。孤独は思考の糧なのだ。


2003年8月30日
(c)中山 元

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