メディア論的なプラトン解釈の先駆

【書評】エリック・ハヴロック『プラトン序説』村岡晋一訳、新書館、一九九七年




メディア論の視点からプラトンの思想と考察した先駆的な著作。いまでこそ、『プラトンとアルファベット』などの書物はごく普通だし、口承の作品と書かれた作品の違いと口承の文学の影響の考察は流行のテーマであるが、一九六三年に出版された頃には、ごく珍しい考察だった。

今読んでも、まったく古びていないのはさすがだと思う。著者はホメロスの口承の作品が、ギリシアの人々にとってはエンサイクロペディアとしての役割を果たしており、人々はこの作品を暗誦することで、ポリスにおける作法から、倫理的な思考までを学んでいたと考える。文字はあっても、人々がふつうに使うものではない場合に、記憶した口承の作品のもつ大きさというものは、いまのぼくたちにはなかなか想像しにくい。著者はその想像しにくさを十分に理解しながら、そんな時代の人々のメンタリティを想像させてくれる。


まずプラトンの『国家』で詩人とミメーシスが激しく排斥されている理由は何かというところから考察が始まる。国家からの詩人の排斥は著名なテーマだが、著者はそれがギリシアの社会の唯一の思考方法であった記憶と暗誦の方法を排除して、まったく新しい思考方法を導入するために必要だったのだと捉える。「社会の集団記憶のうちに伝統を生かし続ける」(62)ための公的な朗読という方法では考えられないものを、ソクラテスとプラトンの哲学が導入したのである。

プラトンの『ゴルギアス』でも、演説を否定して、ソクラテスの質問にイエスかノーで答えるという対話法の重要性が力説されていた。この対話法こそ、それまでの朗々と語る口承文学の伝統に対して、その論点を一つずつ取り上げ、考察するという新しい思考方法の登場を告げるものだったわけだ。そしてプラトンの学校で数学が重視されたのも、こうした新しい抽象的な思考にとっては、数学的な訓練がとても有効だったからである。

またアルファベットが登場することで、新しい思考方法が強化される。「抽象についての実験への道を拓いたのはアルファベット表記の普及だったとさえ言えるかもしれない。結果を生き生きと保存する必要性から解放されるやいなや、作家はそれだけ自由に、経験を反省的に再編成できるようになったのである」(224-5)。ここで文字と会話、哲学と弁論術という対立が生まれるようになる。

プシュケーについての指摘も興味深い。「プシュケーにはある種の潜在能力(デュナミス)、つまり学習過程においてだれもが使うような一つの機関があり、この生得的な能力が、いわば肉眼のように、新しい対象の法に向けなおされねばならないのである。高等教育とはたんに、この機関の方向転換の技術にすぎない。「思考」はプシュケーの他のすべてを凌駕する最高の機能(アレテー)である。「思考」は不滅だが、それが有効になるには、方向転換がなされ、その焦点が定めなおされなければならない(518c)」(242、第11章)。この方向転換がどのようにして行われるかが重要なのだが、著者はそこにすでに指摘した算術の重要性を認めている。算数にこの方向転換のきっかけを認めるべきかは、まだ考えるべき問題だが、方向転換の重要性は間違いのないところだ。

プラトンのイデアという概念が、本書の最後の方で登場するのも、うまく考えられている。著者はイデアという概念は、「概念」という概念に近いものだったのに、どうして「見え」という意味の日常語をあえて使ったのかを考察する。その第一の理由は、概念という抽象的な思考の領域ではなく、道徳的な領域で、ソフィストの道徳の相対主義を否定するために、ギリシアのポリスで「みえる」ような概念を求めていたことにあるという(一四章)
 第二の理由は、客観的な外界について記述するために直観に依拠すると、ソフィストがさまざまな逆説であらわにしたように、さまざまなジレンマや矛盾が登場することである。「宇宙そのものを表現するようなカテゴリー」で、恣意的なもののない「見え」のイデアが好まれたのだという(311)。いずれも説得力がある。なぜ概念ではなく、イデアという語が選ばれたのかという問いも鋭い。

全体としてプラトンの作品をコミュニケーションの理論という興味深いところから掘り下げ、さまざまな貴重な洞察を示している好著だと思う。村岡さんの翻訳もていねいで読みやすい


2003年8月17日
(c)中山 元

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