オランダの両面性

【書評】モーリス・ブロール『オランダ史』
西村六郎訳、白水社、クセジュ文庫




コンパクトなオランダ史。考えてみると、オランダとベルギーはニーダーランドと呼ばれた国が南北に分裂してできた分断国家なのだ。ベルギーからオランダに汽車で入ると、風景が変わったことに気付く。同じ森と野原なのだが、とても豊かにみえるのだ。ブリュッセルを出ると、ベルギーの農村にはどこか荒廃した印象がつきまとっていた。歴史的にも豊かな北と貧しい南の伝統はあるらしい。

とくに大きかったのは、オランダの港と商業国家としてのありかただろう。ヴェネチアの海軍国家が衰退してあとを受けて、オランダは一時は世界的な商業国家となったのだった。スペインの妨害を避けるために、オランダは北回りの航路の開発を進める。地理学者のプランシウスの勧めによるものだ(P.62)。



1594年から1597年にかけて、ウラル地方の探検が推進された。フェルメールの有名な絵画にでてくる地理学者が真剣なまなざしがみていたのは、こうした航路の一つかもしれない。この書物では「インドの東南海岸や西海岸、日本や台湾にまで支店をだした」(p.64)と簡単に触れられているだけだが、オランダは日本とも長いつきあいを維持することになる。

オランダは17世紀には南アフリカに進出し、移民たちアフリカーナーはボーア人(農民)と呼ばれて、その後のアパルトヘイトにいたる長い歴史の端緒となる。オランダ人は植民地ではかなり過酷だったらしい。利益を自国に吸い上げることを第一の目的としていた典型的な植民地経営をした。インドネシアでどのような農地の経営が行われたか、ベルク『風土学序説』に詳しい。

「東インド会社は、マレー初等の大部分にその支配権を広げたので、それを確保するためにますます大規模な艦隊や軍隊を維持しなければならなず、これが利益の一部をくっていた。生産の意図的な制限が、原住民搾取の過酷さとともに強まる一方であった。また移住してくる中国人も手荒く扱われたが、その数が非常に増し、一七四〇年にはジャワで大量の虐殺が行われた」(P.97)。日本がアジアの東のはずれにあったことを感謝すべきかもしれない。

デカルトが、スピノザが匿われ、グロティウスが国際法の概念を提示したコスモポリタンの国オランダが、一方では原住民搾取の過酷な国であったことの反面も忘れてはなるまい。オランダはやがて門閥市民の支配する国として衰退の一途をたどり、ブルジョワたちは文化や芸術を見捨て、レンブラントを窮乏のうちに死なせることになる。そして貧民たちは植民地で、原住民を搾取せざるをえなくなる。国内にそれなりの産業があり、これから世界の強国となるイギリスとのつながりがありながら、あるいはあるがゆえのこの衰退と堕落の激しさには考えさせられる。

アムステルダムにおいしいインドネシア料理の店があった。オスギとピーコのような二人組が店をやりとりしていて、とてもひょうきんで楽しませてくれた。料理をほめると、「だってあたしのお母さん、インドネシア人なのよ」と言っていた。容姿からみて、インドネシア人の血が入っているとは思えなかったが、サーブには東洋的なスタイルがあったのはたしかだ。かれらなりのユーモアなのだろうか。


2003年7月21日
(c)中山 元

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