珍しく楽しく読める正義論

【書評】井上達夫『共生の作法』創文社、一九八六年





表紙の解説によると、「現代自由学芸の騎士」による挑戦の書物。そうかあ、井上達夫は騎士なのか、と妙に納得したりするが、現代の世界における正義の問題を法と政治哲学の重要な問いとして提示した好著である。とくにリベラリズムの定義を示しながら、会話にその理念型を探った最後の章「会話としての正義」が、著者らしい考察を示していて、楽しめる。

最初の章「正義論は可能か」では、正義についての問いそのものの可能性を問う。とくに相対主義について、いくつかのパターンを示しながら、正義の理念と相対主義があいいれないことを指摘する。井上の、というか政治哲学の分野での相対主義のみかたには、正義論を立てるために作られた仮想的のようなイメージがある。文化的な相対主義では少し違う見方をするはずだ。



第二章「エゴイズム」では正のエゴイズムと負のエゴイズムを区別しながら、極限的な利他主義を含めて、正義の原則に反することを指摘する。利他主義はふつうはエゴイズムとみなされないが、これも、「自分が他者より不利に扱われることを欲求することと、自分が他者より有利に扱われることを欲求することの間に本質的な違いがあるだろうか。いずれも自分の欲求ではないか」(p.52)という視点から、正義の原則に反することが指摘される。

しかし利他主義の究極の形は、たんなる欲求として示されるものではないのではないか。レヴィナスの「人質」の概念に示されるように、自己の責任のとりかたとして、一つの原則としてのスタンスがありうるだろう。それに放下のような利他主義もあるかもしれない。レヴィナスの責任の概念は、正義の概念と対立するのではなく、正義の概念を呼び込むような性質をもっていることを忘れるべきではないだろう。

ただし政治哲学としての正義の概念の視点からみると、「正義の根本問題がエゴイズムの問題であること」(p.60)であることは首肯できる。その後で述べられるエゴとディケーの対話は、そのことをうまく描き出している。

第三章の「現代正義論展望」は、エゴイズムの問題にどう対処するかという視点から、功利主義、権利としての正義、公正としての正義の三つのタイプの正義論を提示する。権利としての正義を代表するのかノージックで、公正としての正義を代表するのがロールズであるのは明らかだろう。どちらもリベラリズムの伝統のうちでの議論だが、いま生き延びているのはリベラリズムの政治哲学だけだから、この絞り方は正当と言えるだろう。「しなやかでタフな」論争の呼び掛けもよくわかる(p.137)。

第四章の「リベラリズムと国家」は、リベラリズムの伝統の現状を描き出した上で、リベラリズムにおける国家の位置を自然状態モデルと契約モデルの関係から考察する。近代の国民国家の形成期における政治哲学は、この二つの概念をキー概念としていたが、井上は自然状態のモデルさえあれば、契約のモデルは不要であることを説く。ここは興味深いところだ。

仮説としての契約モデルは、国家が現在どのような状態あるかを考察する自然状態モデルのほかに、どのようにして設立されたかを問題にするものであり、これが自然権と対立する場合もあることを考えると、「無用の難点と混乱をそこにもちこむだけ」(p.173)ではないかということだ。しかしホッブスからルソーにいたる政治哲学において、契約の概念は必須であった。

そこで井上は、契約モデルは「超越」的な理由と、「内在」的な理由から必要とされたのではないかと考える。「超越」的な理由とは、功利主義などから自然権の概念の不要を指摘された場合に原理を擁護するために必要だったということだ。「内在的」な理由とは、自力救済を主張する個人に対しては国家が正当性を主張できないから、契約という虚構を必要としたということだ。

井上はこの問題を解決するために、合意モデルを契約モデルとは違う形で再構成する試みが登場すると考える。これがロールズとノージックの政治理論である。ロールズの理論は「自然状態なき社会契約説」となっており、ノージックの理論は「社会契約説なき自然状態論」となっているというのが井上の読みだ。二人の政治哲学の問題の整理としては優れた視点だと思うが、ホッブスからルソーまでの政治哲学で契約説が必要とされた理由は、もう少し歴史的な考察が示されないと、ほかにもいろいろと理由が考えられるので、いまいち説得力がない。本当に契約説は「冗長」なものだろうか。ぼくもこの問題は考えるに値すると思う。

第五章の「会話としての正義」は、オークショットの統一体と社交体の区別、領主と為政者の区別に基づいて、会話を正義のモデルとして提示する。会話の現象学的な政治分析ともいえる試みはおもしろい。ただ「会話としての正義」ではなく、「正義としての会話」ではないのかという印象は拭えないが。とても示唆的で楽しめた本だった。


2003年8月23日
(c)中山 元

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