影とアニマ

【書評】ユング『原型論』林道義訳、紀伊国屋書店、一九八二年




ユングの著作というよりも、原型に関する四つの論文を集めたもの。時代的にユングが原型についての考え方を確認し、改めていった様子がわかる。訳者は原型論とタイプ論と『ヨブへの答え』がユングの三大傑作と呼んでいるが、原型論は文学や哲学や神話に語られる原型的なものの伝統を解読するうえで、貴重な示唆をあたえてくれるのはたしかだ。

ユングの原型論は、こうした歴史的な彷徨の領域でもっとも生産的であり、フロイト批判や臨床経験での確認では、あまり効率的ではないようだ。集団意識の分析が、個人的な意識しかみなかったフロイト批判に向かうのはよくわかる。「純粋に個人主義的な心理学は、個人史的な原因に還元することによって、原型的モチーフの存在を否定するために全力を尽くし、また個人史的分析によってそのモチーフを破壊するようにつとめている」(19)というが、フロイト理論にはその固有の役割があるのだ。ユングがこだわりはよくわかるが(笑)。


有益なのは、たとえば影の考察である。「自分自身との出会いはまず自分の影との出会いとして経験される。影とは細い小道、狭き門であり、深い泉の中に降りていく者はその苦しい隘路を避けて通るわけにはいかない。つまり自分が誰であるかを知るためには、自分自身とつきあってみなければならない。」

そして自分とは、このわたしであるだけでなく、他者であり、世界そのものである。「また私は自分のうちで他人を体験し、私とは別の人が私を体験しているのである。集合的無意識とは個人的な心の仕組みが顕にされたものでは絶対にない。それは全世界を包み込み、全世界へと開かれている客体性である。その中では私はあらゆる主体にとっての客体であり、それは私がつねに客体をもつ主体であるというような通常の私の意識とは正反対の状態である。そこでは私は世界との直接無媒介の一体感にはまりこんでいるので、私が現実には誰であるかをあまりに簡単に忘れてしまうほどである。「自分自身の中へ迷い込む」という表現が、この状態をぴったりと言い表している。しかしその場合の「自分自身」とは世界のことである。だからこそ自分が誰があるかを知らなければならないのである」。

だれもがかかえている無意識は、世界の底に通じているのである。「ある人が自分自身について無意識である限り、無意識に接触するや否や、彼は無意識そのものになってしまうのである。これは原危険であって、たとえば未開人は自分自身がまだこの「プレローマ」に非常に近い状態にあるため、この危険を本能的に知っており、恐怖の的にしている。……無意識の大浪が来れば彼は簡単に呑みこまれてしまうが、そうなると彼は自分が誰であるかを忘れてしまい、何をやっているかもわからなくなってしまう」(58-59)。だから人類のすべての努力は、意識を強化することに向けられたというのが、ここでの結論だ。

原型の一つのアニマは、「自分で生きているもの、われわれを生かしているもの、意識の背後にある生命である。……心的な生命は大部分無意識であり、あらゆる面で意識を取りまいている」(68)。「アニマは善意に満ちた無邪気に人間の楽園に住む蛇である。設計では無意識に没頭すると道徳的抑制が壊され、無意識のままにしておいたほうがよいもろもろの力を解き放つことになると言われているが、アニマはその無意識への没頭を誘うために納得させるに足る根拠を提示する。……生そのものは善であるだけでなく、悪でもあるからである。アニマは生を望むからこそ、善と悪の両方を望むのである」(69)。

母親原型には、クリステヴァの語るアブジェクションとしての意味がある。「助けてくれる本能または衝動。秘密の、隠されたもの、暗闇、深淵、死者の世界、呑みこみ、誘惑し、毒を盛るもの、恐れをかきたて、逃れられないもの」(129)。「これらの両面的な特性を私はそこで[『変容の象徴』で]、やさしく、かつ恐ろしい母として定式化した。われわれに最も親しいその歴史上の類似物はまさしくマリアである」(130)。

ユングはガイア原理的な体験をしたらしい。東アフリカで野生動物が草を食んでいるのをみたとき、「自分が、これらのすべてが存在していることを初めて知った最初の人間、最初の存在であるという感慨をもったのである。私をとりまく全世界はまだ原初の静けさのうちにあり、自分が存在していることを知らなかった。そして私が知ったまさにこの瞬間に、世界は生まれたのであり、この瞬間がなければ世界は決定存在しなかったであろう」(148)。


2003年9月11日
(c)中山 元

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