トックヴィルの炯眼

【書評】河合秀和『トックヴィルを読む』岩波書店、二〇〇一年





トックヴィルが直面していた問題を、当時のイギリス、フランス、アメリカの政治状況とあわせてわかりやすく解説している。伝記的な記述もあって読みやすい一冊だ。民主政治についてのトックヴィルのかかえた問題が、いまの民主主義からみるとすこしずれてみえるが、イギリスの貴族制的な伝統との対比だと、そうなるのだろう。

というのは、「貴族政に代わって成立した民主政の社会は、平等であると同時に権力集中の社会ということになります。自由の拡大を求めて平等化が進行したのに、平等化の行き着くところ、権力の絶対的な集中が生まれ、人々は自由を失い、権力にたいして平等に隷従することになるでしょう。これは必然的な過程なのか、民主的でありながら同時に権力が分散し、自由が確保されている社会は実現不可能なのか」(p.127-128)という問いは、イギリスの貴族が地方で無償で自治を進めていたイギリスと、フランス革命の中央集権との対比でないと、すこしわかりにくいところがあるからだ。


もちろんトックヴィルはこのような自由な社会をアメリカのタウンシップにみいだすことなる。アメリカの映画では、このようなタウンシップのうちで民意がまとまっていくプロセスが描かれることが多く、感心したりする。しかしトックヴィルの炯眼だったところは、このプロセスがときに暴力的なものとなることを見抜いたところにある。「多数社は物理的で同時に道徳的である権力を所有しており、それは人々の行動だけでなく意思にも働きかけ、一切の対決を抑圧するだけでなく、一切の論争を抑圧してしまう。私はアメリカほどに精神の独立と真の討論の自由が小さい国を知らない」(p.156)。

トックヴィルは公論の形成の場を、自由な結社に求めているようだが(p.179)、現在のアメリカでも、公論の形成は結社よりもメディアに移行しているだろう。そしてメディアは人々の感情に訴えかけることで、世論の代表としての地位を守ろうとする。社会において自己の利益と公共の利益のバランスを、「小さな自己犠牲」のうちに求めようとするとックヴィルの議論のピントがいくらかずれてみえるのは、そのために違いない。ポランティアは公論の形成にはあまり貢献しないのだ。

ただし福祉国家についてのトックヴィルの懸念はそのまま実現されている。トックヴィルの鋭さを示す「民主的専制」の批判を引用してみよう。「私はお互いによく似て平等な無数の多数者たちが、彼らの魂を満足させる些細で俗悪な歓びをせわしなく求めている状態を良そうする。各人はばらばらに孤立し、他人の運命にたいしてまるで外国人のような目で見ている。彼の子供たち、私的な友人たちだけが、彼にとっての全人類である。……これらの人々の上に、巨大な面倒見のよい権力が立っている。人々の喜びを保障し、彼らの運命の世話をやく責任を負うのはこの権力だけである。それは絶対的で、微細で、永続的で、予見力があり、かつ温和である。それは父の権力に似ており、その目的は人が成人になるのを準備することである。しかしそれは逆に、人々をいや応なく未成年の状態に固定させようとする。それは市民たちが楽しむことだけを考えている限り、市民が楽しむことを望んでいる。それは進んで市民の幸福のために働く。しかしそれは市民の幸福の唯一の主体、最終的に裁定者であろうとする。それは市民の安全を守り、彼らの必要を予見して保障し、彼らの喜びを助け、彼らの主要な問題を規制し、彼らの生業を監督し、彼らの遺産を管理し、遺贈されたものを分配する。考えるという厄介ごと、生きていくという困難なことは、一切除去されてしまうのではないだろうか」(p.183)。『アメリカの民主主義』の第二部の最後の部分である。うーん、あたっているなぁ。


2003年8月11日
(c)中山 元

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