意識と自我と社会についての刺激的な考察

【書評】G・H・ミード『精神・自我・社会』
稲葉・滝沢・中野訳、青木書店、一九七三年






社会的行動主義を標榜するミードの古典的な一冊。内観によって精神がまず存立を確認され(意識というほうが今ではわかりやすいだろう)、そこから自我が誕生し、他者との間の共通の空間である社会が生まれる。これは現実の発生の順序ではなく、循環的なプロセスとなる。精神の成立には、言語を使って意味をコントロールするメカニズムが必要だが(141)、そのためにはすでに社会が成立していなければならないからだ。「精神の領域は言語から出現する」(Ibid.)のである。

自我はすでに「本質的に社会的構造であり、社会的経験のなかから生じる」(150)のだから、自我のうちにも社会的なものが埋め込まれているのだ。この精神−自我−社会の発生の順序を検討するのは、すでに絶対的な精神として成立し終えた精神が、これから誕生しようとする精神を眺めるようないとなみである。だからヘーゲルの『精神現象学』と同じ方法に帰着するわけだ。



ミードのユニークなところは、絶対精神のようなものを持ち出さずに、それを主体のIとmeの関係で考察するところにある。まずミードは幼児が遊戯のうちで分身を作り出すことに注目する。子供は母親の役割になったり、警官の役割になったりして遊ぶ。歯医者さんの役割になって、痛がる自分と言い争う例もよく知られている。このロールプレイング・ゲームでは、主体が二重になることが重要である。歯医者になったぼくは、これから歯医者で治療をうけるぼくをなだめたり、からかったりする。

このゲームがさらに広い意味をもつことがある。子供の一人遊びでは、子供は何にでも変身することができる。しかしおおくの子供たちと遊ぶゲームでは、子供は集団で定められた役割を演じることを求められる。鬼ごっこの鬼が、隠れてしまっては、ゲームにならない。そこにはある社会組織の萌芽がある。そこに参加するうちに、子供はひとつの性格を獲得していく。

「性格が生まれていく過程は、以上のようなものである。わたしはこれを、幼児が他者の役割を採用する過程として語り、とくにそれが言語の使用をとおして起こると述べてきた。……社会活動を媒介とする身振りで自我を十全なものとしいくことが、とりもなおさず他者の役割を採用する過程の発生因である」(171)。ミードはこの社会組織の全体を代表する他者の位置を、「一般化された他者」と呼ぶ。子供が一般化された他者の役割を演じることを学んだとき、大人になったと言えるのだろう。

メルロ=ポンティの幼児の成長に関する論文がどうしても思い出されるが、ミードは言語における主語の位置からではなく、役割交換というゲームの場から幼児の成長を考察する。この社会的なものは、主体においてmeと呼ばれる。ぼくたちが他者の態度を採用するとmeが登場してきて、そのmeに対してぼくたちはIとして反応する(186)というわけだ。だからmeとは社会化された自己であり、Iはこの自己に対する自我の反応だと言えるだろう。

同じように、meは時間的な過去の〈わたし〉でもある。過ぎ去ったぼくはもはやIとしてはありえないものになる。ぼくがIとしてとった行動も、それが過去のものとなるにつれて、Iにはての届かないものになる。ああ、あんなこと言わなければよかったのにと悔やむのは、過去のものとなったmeに対するIの反応なのである。

さらにmeは社会的な側からみたぼくへのまなざしでもある。「meとは、われわれ自身の態度のなかにあってある反応を要求しているハッキリと組織化された共同体の表象である」(190)。Iは完全に計算し尽くせない意外性のあるものであり、meは変えようと思っても変えることのできない他性をもつ。それでいてIとmeの両方で、「社会的な経験のなかで現れるところの人格が構成される。自我は本質的に、こういうふたつの識別できる側面をともないながら進行していく社会過程である。もしも自我がこういうふたつの側面をもっていなかったら、自覚的な責任というものはありえないし、経験のなかに新しいものが発生することもない」(190-191)。

さらにぼくたちがいきる社会には、自我や精神とは違う次元のものが存在する。ミードはそれをメルロ=ポンティと似た形で「制度」と呼ぶ。この制度はマナーのような社会的な性格を含むものであり、これは言語、風土、歴史などのさまざまな特別な要因のうちで形成されてくるものである。社会のうちに暮らす人々が社会の気風を形成するが、個人のモラルはそれぞれの社会の刻印をうけるのである。

しかし社会のこの刻印は、決定的なものではない。社会のうちにある矛盾は、言語を使ったコミュニケーションのうちで明確にし、他者を説得して改革することが可能になるからだ。ここでミードはハーバーマスの理論の先駆的な形をみせる。「ディスクールの宇宙」のうちで理想的なコミュニケーションが行われることで、民主主義の原則が貫徹される可能性がある。

ミードはこの理想的なコミュニケーションの成立には、現在の形の民主主義が桎梏になると考えている。そして理想的なコミュニケーションが行われないかぎり、「人類社会の理想は夢物語」になる(340)。考えてみても、このような理想的なコミュニケーションが行われる可能性は少ない。一つの社会の中でさえ困難であることを考えると、異なる文明の間の理想的なコミュニケーションは、それこそ夢物語である。

残念ながら世界の現状はいかにも雄弁に、そのディスコミュニケーションが現実であることを物語っている。ミードのこのモデルは、どこかでボタンを掛け違っているような印象を与える。最後に出てくる結論が、妥当に思える精神−自我−社会の自己展開のプロセスの社会学的に分析と、あまりにそぐわないからだ。それでも人間の精神や社会について、コミュニケーションについて考えるためには、いまでも刺激的な書物であることに違いはない。


2003年10月10日
(c)中山 元

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