説得力のあるルソー論なのだが

【書評】水林章『公衆の誕生、文学の出現』みすず書房、二〇〇三年四月




一八世紀のフランス文学を専攻する著者の二冊目のルソー論であるが、今回は公衆という視点からルソーの文学を考察する。パブリック、レパブリック、ピーピルといった言葉の語源と登場の歴史を詳しく検討しながら(もちろんフランス語だが)、「文芸の王国」という知識人の集団の公共性が崩れて、人民ピープルという概念に移行し、いまやパブリシテという欲望の主体、広告のターゲットとしての消費社会の主体にまでなりさがっていくプロセスを説明するプロローグと最初の章「公衆の誕生」はスリリングで読ませる。

第二章では、公共の場としてのカフェから逃走するルソーを描きながら、この公共の場、人々の議論のスペースがいかに虚偽にまみれているかを、ついでにルソーとともに(笑)糾弾する。お昼のワイドショー、新聞や週刊誌などの印刷メディア、2チャンネルなど、インターネットまでを含めて、現代の「公衆」の堕落は、「文芸の王国」とは比較にならない(だろう)ものであるのはたしかだとしても、その批判をルソーと一緒にするのはやはりどうだろう。



大学での講義のついでのように、ルソーの文体的な類似性を詳細に実例をあげて検討するあたりから(p.147)、この書物の最初にかいまみられた冒険心が失われていくようで、読むほうとしてもすこし気持ちがなえてくる。第三章の「言語の専制の彼方へ」では、公共空間の堕落と、ここに背を向けたルソーを描きながら、「文学の誕生」を語りだす。たとえば次のように。

ジャン=ジャックには頭がふたつついているといった荒唐無稽な言葉が別にこれといった抵抗に遇すこともなく、あたりに広がってゆき、ついには社会空間全体をべったりと塗りたくってしまうという事態に対する臓腑の底から立ち上がる苛立ちなくしては、文学の言葉はあり得なかった。「文学」とは「公論」という名の社会的な言説の時代が生み落とした鬼子にほかならない。『対話』を縦断する懊悩は、そういうことをわたしたちに告げているように思われるのである(p.230)」

文学を公論と対立させることで誕生させるのは、ルソー論としてはわかるが(ルソーの文学的な源泉を指し示すものとして)、文学の歴史そのものとして考えると、いかにも無理がある。近代的な文学に限定しても、公共の場での閲読の可能性と結びつきながら、それとの反発と牽引の関係のうちで近代の文学や小説が登場してきたのではないだろうか。

広告についてのラモネの評論に依拠して、「市場の要請にもとづい形成性された広告・宣伝=ピュブリシテの言説から文字通り不断の「働きかけ」を受ける公衆=ピュブリックが、いかる言説の主体sujet、すなわち服従させられた個体individu assujettiとして形成されることになるかは、あまりにも明らかである」(p.247)という予定調和的な結論に進むのは、すこし安易ではないか。この書物の「野心」を買うだけに、少し残念だと思う。楽しく読めたので、文句を言えた筋合いではないのだが。


2003年8月7日
(c)中山 元

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