カイエ・ソバージュの白眉の一冊

中沢新一『愛と経済のロゴス』講談社、二〇〇三年一月



中沢のカイエ・ソバージュの三冊目だが、このシリーズで白眉の一冊ではないか。贈与論において、純粋贈与の概念を提示し、これが経済だけでなく、精神分析におけるラカンが提示した心の構造とも一致することを示しながら、「グローバル資本主義の彼方に出現すべき人類の社会形態についての、ひとつの明確な展望」(6)を提示することを試みる。試みは壮大だ。



もちろんその試みが成功しているかどうかは別問題だが、志をいつも大きくもちたい。中沢は志賀直哉の「小僧の神様」をとりあげながら、贈与というものがいかに困難なものを含むかを巧みに説明する。純粋な贈与をしようとしても、人間にはその試みが過剰なものとなってしまう。それをなすことができるのは「神のみ」なのである。

中沢はこの贈与という営みが、人間にとって原初的なものであり、経済的な交換はここから派生したものにすぎないことを説得力をもって説明する。人間の言葉は詩の言葉、比喩から発生したという認知考古学的な理論との結びつきは別として(51)、経済学が交換の経済学だけでは説明できないのは、バタイユも説くところだ。

この書物には一度も言及されないが、中沢の試みがバタイユの試みと重なるのは明らかだろう。ラスコーの壁画まで登場させながら、なぜバタイユについて一言も語らないのか、少し不思議だ。バタイユなら太陽の無償の贈与とそこから生まれる呪われたもので普遍経済学を構築するのだが。


中沢はラカンを取り上げて、魂の構造の三つの領域と交換、贈与、純粋贈与を説明するが、この部分がこの書物で一番あやういところだろう。議論の根底にラカンの理論を据える必要があるかどうか、疑問だし、純粋贈与を現実界と重ねることで、どこまで理論的な射程が広がるかが問題なのだ。プラスとマイナスの面で考えると、説明原理としての力が弱まるような気がする。

ファロスの悦楽と、他者の悦楽についても(163)、同じことが言えそうだが、この部分は第五巻で詳しく取り上げられるということなので、期待していよう。ぼくがずいぶん前から考えているバタイユ論(「ヘテロロジーの彼方」)と重なるところが多く、とても示唆された一冊だった。


データ
タイトル 愛と経済のロゴス
責任表示 中沢新一著
出版地 東京
出版者 講談社
出版年 2003.1
形態 210p ; 19cm
シリーズ名 講談社選書メチエ ; 260 . カイエ・ソバージュ ; 3
ISBN 4-06-258260-0
入手条件・定価 1500円
全国書誌番号 20368975
個人著者標目 中沢, 新一 (1950-) ‖ナカザワ,シンイチ
普通件名 贈与 ‖ゾウヨ
NDLC G185
NDC(9) 384.37
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000004015115


目次

序章 全体性の運動としての「愛」と「経済」
第1章 交換と贈与
第2章 純粋贈与する神
第3章 増殖の秘密
第4章 埋蔵金から聖杯へ
第5章 最後のコルヌコピア
第6章 マルクスの悦楽
第7章 聖霊と資本
終章 荒廃国からの脱出


2003年11月12日
(c)中山 元

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