一神教はどのように発明されたか

中沢新一『神の発明』講談社、二〇〇三年六月





中沢が中央大学で開講している宗教学の講義の記録であり、『カイエ・ソバーシュ』シリーズとして、すでに三冊が刊行されている。この講義では、神の発明の二つの道をアボリジニーやイフイットたちの創造神話と、旧約の創造記を比較しながら、示してみせる。タイトルにこめられた「野放図な思考の散策」というところもあるが、ラカンのメビウスとトーラスのモデルを使うなど、いろいろと工夫がされていて、おもしろい。

最初のところのアマゾンの薬草を使った幻覚体験、アルトーなども思わせて楽しい。実はぼくも風邪が治りかけのときに、これとまったく同じ体験をしたことがある。薬がきいていたのかもしれないが、まるで映画の上映会(笑)と笑ったことがある。うたたねの感覚はあるが、夢ではなく、意識を現実と映画の間で自由に切り換えることができる。


そしてここで描かれているようなさまざまな彩りの図形が、いくらでも向こうからこちらへと押し寄せてくるのを、まざまざとみることができたのだ。丸、四角、渦巻きなど、「神聖図形」が銀河のように流れてきて、その圧倒的な印象に、ただ呆然としていた。本書を読んで、こういうことは、やはりあるのだなと実感した。きっと脳と視覚のシステムから、かなり普遍的なもので、だれもが同じような図形をみるに違いない。またときには、あのドリームタイムに戻りたいものだ。

ところで、中心に空虚と墓場(死)をかかえた縄文の村落や、アマゾンや太平洋の島々の村落はスピリットを示したもので、これは「スピリットとともにある古代」に特有な稀有な高次元的な思考であり、それをモデル化してみると「メビウスの帯」になる」(103)というのは、やはり思いつきに頼りすぎるところがあるのではないか。中央の死と空虚を抱えた構造は、どちらかというとトーラスに近いといえるのではないか。これが新石器思考の名残というには、まだ埋めなければならないギャップが大きすぎるようだ。

そして弥生時代には、死者の領域が生者の領域と分離されて、弥生時代には「縄文人たちのとらえていた、スピリットにみちあふれた世界はもう体験も理解もできなくなっていたはず」(104)だとすると、歴史的に断絶が生じているのだから、結論部分での「スピリット世界の記憶をかすかに保ちつづけている私たち」の可能性は、もはや生かすことは望めないのではないか。

シュミットの『神という観念の起源』に依拠した高神と来訪神の二元的な分類はよくわかるが、それを粒子の対称性の破れという物理学の知見から説明しようとするのはやはり無理がある。次元が違うものを自在に持ち込むと、『知の欺瞞』で告発されたものと同じようなペダンティズムに落ちこむおそれがある。歴史的なものを、「自然史」的なものとして、「唯物論的に」生かそうとするのは、「マルクスとエンゲルスの思想」の有効性(117)を生かすものとは思えないのだが。

旧約の唯一神の絶対性は、スピリットとの対比だけでは語れない歴史性と思想性があり、その後のキリスト教の歴史における苦闘があったからこそ、形成されたものでもある。中沢はたしかに三位一体における「聖霊」のとりいれを考察し、経済の問題にまで敷衍しているが、それがどの程度までぼくたちの直面する問題を考える上で役立つか。これはカイエ・ソバージュの別の巻を読んでから判断したい。

ただ、神の名のもとに戦争をするブッシュの背後にも、それなりの伝統があるわけだし、現代の趨勢をグローバリゼーションの名のもとに、巨大爬虫類化して人間と、一蹴してすむものでもない。取り組もうする試みの壮大さには共感するが、着想のおもしろさに遊びすぎていないかというのが、正直な読後感だ。
2003年10月26日
(c)中山 元

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