自由と哲学の根源的な関係

【書評】ジャン・リュック=ナンシー『自由の経験』
澤田直訳、未来社、二〇〇〇年




ナンシーの博士論文だという。ハイデガーの自由悪の理論を基礎にして、自由と哲学の深い関係について自由に考察した書物。考察の自由度が楽しい。ぼくもついやってみようかなどと、誘われる。それぞれの章ごとにテーマが移ったりするので、なかなかわかりにくいので、章ごとにポイントをつまんでみよう。

一章「自由というテーマの必然性」では、本質と実存というなじみのテーマから始めて、世界内存在として「ここにある」存在である人間には、自由が解放として、思考の可能性としてあると考えなければ、世界内存在は鈍い必然性とみなされる(カント)ことを指摘する。本質なしの、根拠なしの自由。



二章「自由の問題の不可能性」では、カントの『判断力批判』を考察しながら、「自己固有の本質としての実存は、存在の自由以外の何者でもない」(34)ことが確認される。ハイデガーはこれを意欲の問題として考察しなおす。自由は理性の事実なのか、実在の事実なのか。

三章「われわれは自由について自由に語りうるか」。哲学では自由について自由に語ることが必須であるように思われるが、二種類の拘束に服している。自由はあまりに自明であるために、その根拠への問いは無用に思われること、自由についての哲学的な考察が、主体性の存在論の規定に根本から従属しているために、かえって自由について考察できないのである。

四章「ハイデガーによって自由なままに残された空間」。ハイデガーはヘーゲルをてがかりに、「存在の問い根をもつ哲学の根本的な問い」として提示した後に、自由について考察するのをやめた。考察の中断によって開かれた空間で、ナンシーは自由の問いを続けようとする。ハイデガーにおける退隠の問題は重要だが、十分に考察されていない。ハイデガーはシェリングを考察しながら、「シェリングが自由の事実に固有な事実性を捉えていることに気付き、この事実性からシェリングにおいては中心的なモチーフである人間の本質の必然としての自由へと向かう」(68)。ハイデガーにとっては自由は真理と同じように、自由と非自由として現れる。

五章「自由の自由な思考」。この空間を守ることは、自由を了解することに警戒することだ。カントにおいては自由は法と、立法と同じものとなる。自由の思考は必然の必然の了解へと進む。しかしここでは自由は取り逃がされてしまうのだ。そもそも了解不可能なものとして現れる自由を了解すること、この思考の限界に挑むべきだ。思考は自由からでてくるのであり、思考を与えるのも、自由なのだ。自由は哲学のエレメントであることは、ハイデガーがすでに『形而上学とは何か』で考察していたことだ。

そして不可能な自由の思考において、思考の他なるものが生まれる。「あらゆる思考の他なる思考、思考の他者でもなく、それによって思考が思考するもの、それが自由の炸裂する輝きである」(107)。

六章「哲学−自由の論理」では、西洋の哲学の誕生とともに、自由における人間が創設されたことを確認する。思考はロゴスであり、それは「みずから固有な本質への接近の自由」(111)である。自由はロゴスだけに基づく。哲学は根拠づけなどをしない。哲学は自己に固有な本質へと接近しながら、ロゴスを定義する自由の、ディスクールにおける固有の折り返し(113)である。うーん、この章はあまりうまく進んでないような。

七章「自由の分有。平等、友愛、正義」。存在は分有されるというありかたで、わたしたちに共通することを確認して、自由は主体の承認と自己制御のプロセスではなく、主体を存在の分有の空間に投げ出すことが指摘される。だから自由は平等である。友愛である。正義である。「正義は、通約不可能なものの名にいて既得ないしは現に支配的な『公正の尺度』の妥当性を否認するという、繰り返される決断のうちにしかない」(132)。自由に完成はありえない。

八章「自由の経験。それが抵抗する共同体についての再説」。自由は経験の条件であり、超越論的的な経験、ないしは経験がそれである経験の超越論的なものだ(152)。ヘーゲルが『精神現象学』で語ったのは、このことにほかならない。ところがここにひとつの問題がある。自由であるということは、「われわれの自由」であることであり、これはわれわれの共同体の創設という共同の経験である。これは共同体を我有化する試みに対する無限の抵抗としてのみ行われることを忘れてはならない。

九章「物、力、視線としての自由」。サルトルは人間が自由の刑に処せられていると語った。これは人間が自由に所有されているということだが、これは人間が自由を剥奪されていることを、「自由に」知るように、自由によって強いられているということだ。自由は因果性の視点から考察してはならない。物の空間の因果関係とは異なる次元の力をもつものだ。この力は、人間の自然に対する力、他者に対する力関係を作り出すような超越論的な力である。物としての存在は、自由なまなざしの力によって与えられるのだ。

一〇章「絶対=分離的自由」。絶対的でない自由はない。自由は権利なしに「権利として」ある何かの権利である。自由はこの根源性のために事実として、原初的なものとして、革命として理解する必要がある。自由とは法の特異性であり、特異性の法である。「自由であれ」という不可能な命令。絶対であることは、あらゆるものから分離されていることである。

一一章「自由と運命。不意打ち、悲劇、贈与性」。この絶対性のために、自由は宿命の反対物である。それは到来するもの、性起であり、時間であり、由来であり、現前の贈与であり、不意打ちとして訪れるものである。「自由は一撃で、そのつどごとに、意志の全体系を不意打ちする」(197)。自由はそのときでないときに不意打ちする。時間の切断であり、時間への跳躍である。時は満たされると語ったのはベンヤミンだが、死は悲劇の主人公を不意打ちするのである。

一二章「悪。決断」。悪は存在の欠如でなく、その否定性において、積極的な可能性を作り出す。ところが根源的な悪という概念は、自由意志の了解不可能性とともに、了解不可能なものだ。悪の了解不可能性は、カント以来、自由の了解不可能性の核心に存在する。自由は、みずからにおいて、悪意の格律を容認する(214)。ヘーゲルとハイデガーは、憤怒において悪が現れると指摘した。これは「自由を荒廃されるにまかせる自由な荒廃」である。そこで主体は自由に自己から離脱する。「悪は、実存者のうちに、実存の拒否のもっとも固有な可能性としてある」(220)のである。自由は善へ向けての、かつ、悪へ向けての自由である」(232)。

一三章「決断。砂漠、犠牲」。決断は不意打ちする。そこからすべてが始まる。自由とは、みずからを開く存在の空間性において、自由である以前に贈与性である(250)。「しかし思考の希望が意味するのは、もし実存が存在に不意打ちでなかったら、われわれは思考することすらしないだろうということだ」(253)。

ときに形而上学になりすぎるし、ときにハイデガーの思考の後付けに熱中するところはあるが、興味深い自由論だ。脚注もいろいろと参考になる。いずれまた読み直したい。


2003年8月29日
(c)中山 元

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