死と共同体

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
西谷修・安原伸一郎訳、以文社、二〇〇三年




「わたしは嘘をついている」「わたしは気が狂っている」「わたしは死んでいる」というのは、どれもある不可能なものを含んでいる。語る主体が、語る内容において、根拠において、可能性において、語るという行為そのものに含まれる矛盾をあらわに、みせつけているからだ。

とくに死ぬという行為は難しい要素を含む。ぼくは嘘をつける。ぼくは気が狂っていたことに気づくことができる。しかしぼくは自分で死ぬことはできない。死ぬという行為は、ぼくには絶対に許されていない行為だからだ。先日、死者の顔をみながら、ぼくは死ぬことの不思議さをつくづくと感じた。



死者の遺体とともに、ぼくの魂の一部も一緒に燃えて行ったような気がしたが、死ぬということは、他者からしか訪れないものなのたろう。息を引き取った瞬間に、ぼくはぼくではないものになり、ぼくの「死」は他者からうけとめられ、他者から追悼されるものとなる。ぼくの死は、他者が引き受けることで、他者が骨を拾うことで、はじめて成就する。

バタイユは、死をひきうけることを共同体の役割だと考えた。「冬と春」という印象的な論文でバタイユは、共同体の役割は死を死者に代わってひきうけること、そして共同体の成員に代わってひきうけることにあると指摘している。「ふつうの人間たちは、一日をとおして、ほとんど無に等しい生の強度が生きるにすぎない。こうした人間は、死が存在しないかのようにふるまい、本来の高みではなく、低い場所に存在していることを悔いることもない。しかし生きることを死で測るのは、国民の仕事である。それぞれの共同体の生は、たんに美しいだけではなく、偉大なものでなければならない。ある人が死ぬたびに、途方に暮れた近親たちに共同体は応答しなければならないからである」と。宗教の源泉がこの共同体の機能にあるのは、文化人類学のさまざまな研究が指し示していることでもある。

ナンシーはバタイユの共同体論の意図をひきつぎながら、この共同体の意義を再検討する。ぼくたちは自分一人では死ぬこともできない。死は共同体の他者がひきうける必要がある。父親の死は息子がひきうけ、息子の死はまたその息子がひきうける(ここで父親と息子は象徴的な意味しかない)。死んだとき、もはやぼくは他者の記憶のうちにしかないが、他者も死んだ後では、他者の記憶のうちにしか残らない。人間はこの空しさを「分有」する。

これは空しさでないのかもしれない。他者が承認することで、はじめてぼくは存在することができるし、ぼくが承認することで、他者が初めて存在することができる。「共同体やコミュニケーションがむしろ個人性を構成する」(203)のであるが、反対に共同体は実体や本質のようなものとして個人の上位にあるものではなく、「共同体とはコミュニケーションをとおしてしか」実存しないものであり、民族のような結びつきではないからだ。

「共同体はそれゆえ、抽象的関係や非物質的関係でもないし、共同の実体でもない。それは共同の一存在ではなく、一つの共同での存在であり、あるいは他者とともに誰があるということ、一緒にいるということなのだ」(Ibid.)。ぼくたちは共同にあることで共同体を作り出し、共同体においてあることで、ぼくたち個人が主体として存在することができるようになる。アレントはこれを公共性という概念で考えたが、ナンシーは共同性という概念で他者の問題を考えようとするわけだ。

西谷が指摘しているように、タイトルの「無為の共同体」とは、このような個人と共同体の関係が、個々の主体の営為において現れるというよりも、主体が可能になる手前で、主体がなにもなさないところが発生するからだ。レヴィナスの言葉を借りれば、「イリア」の場で、時間のもとでヒュポスタシスが可能になるのであり、それは主体の力をこえた地平にあるからだろう。ハイデガーの共同存在論をてがかりに、それでもハイデガーを越えて、共同性について考察する注目すべき一冊である。奇妙なことに、ナンシーが不得意な英語で書いたという第五部の「有限な歴史」の文章がもっとも示唆的である。
2003年10月19日
(c)中山 元

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