創発する暗黙知

マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』伊東俊太郎訳、紀伊国屋書店、一九八〇年





人間には、科学的な知や、言語で表現できる知を越えた暗黙的な知がそなわっていることを明確に指摘した古典的な書物。この知は言語で語ることができず、しかも言語化された知の背景となり、これをもたらすことができるもの、科学的な発見をもたらし、研究の指針を教えてくれるものである。


たとえばぼくたちは相手の顔をみて、そのときの相手の気分をほとんど読み取ることができるし、一瞬の表情の変化で、相手の気持ちの変化を読み取ることができる。算数のできる馬「賢いハンス」は、出題者が無意識のうちに発するしぐさで、算数の正しい答えをだすことができたという。動物たちは、ぼくたちの表情を読み取る能力に長けている。ぼくたちはその能力をあまり活用していない。それは客観的な知識や言語に表現された知識に頼りすぎているからではないか。

著者は、ぼくたちがどのようにして他者の表情を解読し、多数の人々の顔を見分けることができるのか、どのようにして自転車にのれるようになるのか、テニスで相手の姿勢から、ボールのコースと球種を読み取れるようになるのか、言語でも科学的な考察でも表現することのできない暗黙的な知があることを指摘する。そしてこうした知なしでは、ぼくたちの生活そのものも成立しなくなるのだ。

科学では、主観性を排した客観的な知識の確立が求められると考えがちだが、「暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている、ということを考えるならば、知識の個人的な(パーソナルな)要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊をめざしていることになる」(38)のはたしかである。科学は普遍をめざすが、その普遍には個の軸のようなものが必要なのである。

こうした暗黙知の存在は、前から認められていたことだが、ポラニーはたんにそうした知識の存在を語るだけでなく、それを明確に概念化するためにさまざまな試みをしているところが、えらい。言いっ放しなら、だれにでもできるが、それを概念化するのは、容易ではないのである。この概念は、言語化を拒むところにその本性があるからだ。

ポラニーはそのために「創発」という概念を提示する。写真は小さなドットの集まりでできている。このドットを眺めていても、なにも見えないが、目を放してみると、それは鳥の写真だったり、アザラシのタマちゃんの写真だったりする。写真の次元には、ドットの次元とは違うものがあらたな「創発」されているのである。そのときドットの次元では、その上の写真の次元を理解することができない。写真はドットにたいして包括的な次元にあるのである。

たとえば人間も多層的な存在だ。人間として成長する過程は発生学で考察する。生態の機能は生理学で考察する。行動は動物行動学で考察する。道徳は人間学で考察する。人間にはたしかに動物の次元があるが、動物の次元では道徳性は理解できない。生理学で動物の行動が理解できないのと同じだ。この次元ごとに新しい創造が行われているのであり、下の次元では上の次元を理解できない。

そして上の次元は下の次元の境界条件(マージナル・コンディション)を決定する。「上位のレベルがそれぞれ、そのすぐ下のレベルによって未決定にされている境界条件を制御しているのであれば、このことは、実際にはその境界条件が下位のレベルで信仰している活動によっては、決定されていないということを意味している。いいかえれば、いかなるレベルもそのレベル自身の境界条件を制御することはできないのである」(72)。

これはオートポイエーシスとシステムの理論につながる興味深い指摘である。そして科学的な発見も、問題をみつけ、仲間でその問題の重要性を確認し、問題をとくために想像力を働かせ、その回答が仲間のうちで正しいと認められるプロセスは、この暗黙知の働きによる以外にないのである。

出生パターンがπの倍数であるという厳密な証明が、科学者から相手にされなかったというエピソードはおかしい。科学者仲間で問題の重要性が認められないとき、それは科学者の偏見かもしれないし、パラダイムのためかもしれないが、たんに科学者たちの暗黙知が、その問いに重要性をみいださないだけかもしれないのだ。発見論と科学論まで含む楽しい一冊。

データ
2003年10月26日
(c)中山 元
タイトル 暗黙知の次元 : 言語から非言語へ
責任表示 マイケル・ポラニー著
責任表示 佐藤敬三訳
出版地 東京
出版者 紀伊国屋書店
出版年 1980.8
形態 146p ; 20cm
注記 原タイトル: The tacit dimension.
注記 文献:p140〜141
入手条件・定価 1400円
全国書誌番号 80036797
個人著者標目 Polanyi,Michael (1891-1976)
個人著者標目 佐藤, 敬三 (1939-) ‖サトウ,ケイゾウ
普通件名 認識論 ‖ニンシキロン
普通件名 科学論 ‖カガクロン
NDLC H31
NDC(8) 115
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001467333

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