精神分析からみた分身

【書評】オットー・ランク『分身』有内嘉宏訳、人文書院、一九八八年





分身についての精神分析的な考察だが、ドイツの小説や民話などから広く例を集めて分析する。いろいろな例があげられているでわかりよいが、精神分析的な考察が最後の章だけになっていて、寂しい。もう少し深い分析が欲しいところだ。

ドイツの迷信では、肖像画を描かせると、死ぬというが(93)、日本の明治初期にも写真を撮影すると、魂を奪われるという迷信があった。天皇家についても、肖像画と写真についての長い迷信的な伝統があったはずだ。写真についても、おやこの人がというほどの迷信が満ちあふれている。どれも分身と魂を奪われることへの懸念によるものだと思うと、分身への恐れの深さが納得できる。鏡に布をかける風習も深いところに根差している。



精神分析的には、フロイトが『ナルシシズム入門』で説くように、自我理想の大きさと、現実の自我の評価のずれが分身の場と考えられる。そのための死の衝動と恐怖、自己処罰幻想がつねにつきまとうことになる。

「死の不安とナルシシズム的態勢のある種の連関を漏らすモチーフは、一面において自我のある発達段階への個人のリビドーの固着を、だが他方では、せんじ詰めれば背後に死の恐怖がひそんでいる、老いへの恐怖をあらわす、〈いつまでも若くありたい〉という欲望である」(106)。

もちろんウィリアム・ウィルソンのように、良心が分身となって、主体の悪しき行為を押しとどめることもある。この場合には、自我理想が一人で行動し始めるのだろう。だがナルキッソスがどうして死ぬのか、もう一度考えてみてもよいだろう。

2003年10月4日
(c)中山 元

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