キリスト教に注ぐ源流

【書評】グレゴリー・ライリー『神の河』
森夏樹訳、青土社、二〇〇二年一〇月





サブタイトルをキリスト教起源史とするこの書物は、キリスト教が成立するまでに、古代のどのような遺産が必要だったか、そしてキリスト教の教義が確定されるまでに、どのような紆余曲折が必要だったかを説明する。キリスト教におけるギリシア哲学の影響は明らかだが、あまり重視されないし、認識されても否定的な文脈で語られることが多いので、好感をもてる。

最初の章では、このキリスト教の起源を考察するために、系譜学というモデル、滔々と川を集め、デルタでは多数の支脈に別れて海に注ぐ大河というモデル、変化が発生するはは、必要に迫られた場合だけであると考える断続平衡説という進化論的なモデルを使うことを指摘する。



そしてキリスト教の大河の屈曲には、いくつかの重要なターニングポイントがあったことが語られる。これが本書の内容を構成するわけだが、まず第一のポイントは、一神教という概念である。古代の多神教の伝統の中から、いかにして一神教が発生するか、それも包括的な一神教から排他的な一神教になるのはどのようなきっかけだったか。

第二のポイントは、キリスト教が成立してから、この一神教を否定するような三位一体の理論が登場するのはなぜか、そしてどのようなきっかけからか。第三のポイントは、少し時間をさかのぼるが、悪魔という概念が登場して、一神教に二元論的な傾向が生まれるのはどうしてか。ここではペルシアの影響が強く示唆される。

第四のポイントは、肉体と分離した魂という概念が生まれるのはどうしてか。そこにはオルペウス教とピュタゴラス、そしてソクラテスとプラトンの影響が強調される。第五のポイントは、イエスという救済者が必要とされたのはどうしてか。この救済者という概念は、他の文明にはほとんどみられないもので、ユダヤの伝統が強く影響している。これは終末論と深い関係にある。

個別の点では、一神教が登場する際には、父親と母親と子供という家族モデルがある程度働いたとしても、ギリシアの科学によって、宇宙像が転換したことが重視される。神は肉体をもたず、王座にすわらずモナドとなった。そのために神は目で見えるものではなく、抽象的な存在になった。イエスの天才はこのことを強く認識していたことにある。

「地球中心の宇宙が必要としているのは、根本的な宇宙観の変化であり、神と宗教的世界をまく新しい理解へと導く変革だった。ギリシアの哲学者が取り上げたのは、「一と多」という昔からある疑問だった」(69-70)。なぜか著者はふれないが、もちろんここでパルメニデスの「一」という真理を思い起こす必要があるのだ。否定神学はここに胚胎している(アポファンティックは辞書的に陽否陰述とするのではなく、伝統に従って否定神学と訳すべきではないか、七四ページ)。

グノシースが「伝統的なユダヤ人と、ギリシア哲学を学んだ教養高いユダヤ人との間で論争の起こった時代」の産物であり、ユダヤ人やキリスト教徒が「神性」を決定しようとすれば、避けることのできない問題を提起しているという指摘はわすりやすい(78)。神は霊的なものか、身体をもつものか、この隠された神はどうすれば人間に理解できるようになるのか。「人の子」イエスがそれに答える。流出の概念もグノーシスに負うところが多いのだ(124)。

また世界に悪がある理由は、ゾロアスター教の善悪二元論で説明されるようになる。そしてここから悪魔が登場するのだ。そして「悪は神と同等の地位から一段下へと移される」(158)。悪が悪魔の特性とされることで重要な帰結が生まれる。「悪魔が最終的には審判を下され滅ぼされることだった」(187)。ここで終末論が登場する。

またイエスが説いた多くの説教は、魂の救済と審判という概念なしでは生まれないものだったが、これはプラトンの教えに依拠している。「霊的な神が住むという天上の霊のこきょうには、人間の肉体の住む場所などない」(242)からである。またゾロアスター教の復活の概念も活用されている。この復活については、プロメテウスの神話など、ギリシア神話の多くの要素が利用される。しかし魂の救済者という概念はイエスのものである。ギリシア哲学では、「コーチ」は必要であるとしても、懲罰から救済してくれる者は不要だったからである(328)。

このイエスの概念とギリシア哲学の概念、ユダヤの概念とゾロアスターの概念などの対比は、ぼくたちにいろいろなことを考えさせる。そして宗教と哲学の違いと共通性についても。お勧めの一冊。

2003年9月29日
(c)中山 元

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