ポストモダンと政治

【書評】スタンレー・ローゼン『政治学としての解釈学』
石崎嘉彦訳、ナカニシヤ出版、一九九八年



評価の難しい本だ。訳者はこの書物を翻訳することを思い立った理由として、「ローゼンが遂行している、解釈学あは言語理論のいずれかに立脚するかもしくはそれらの混淆物に支えられた最近流行のポストモダニズムに対する批判の視点が、現代のわが国における思想状況に対してきわめて重要な視点を提供してくれる」と感じたこと(しかしわかりにくい文章だな)、「わが国の思想史研究において盲点ともなっているコジェーブやシュトラウスの思想を紹介するのに絶好の資料となる」こと、「西洋思想史のほぼ全体を視野にいれ、最も根源的なところから思考する哲学者の思想をわが国の読者にぜひ紹介すべきだと思ったこと」(282)をあげている。

しかしこの目的のうちでかろうじて成功しているのは、第二の目標だけではないか。コジェーブとシュトラウスの有名な対話は、対話の切り口が困難なこともあって、日本ではほとんど顧みられていないようだ。その対話に少しでも立ち入っている第三章は、それなりに有益だと思う。


しかし最初のポストモダン批判というのは、ローゼンのスタンスが難しいものであるだけに、うまくいっていないという印象をうける。ローゼンは自らポストモダンの立場をとってみせて、「ポストヒューマンな顔をしたデリダ、フーコー、毛沢東主義者のアカデミックな弟子たち」(251)を揶揄するのだが、その手口はポストモダンを擁護するにも、批判するにも、あまり役立たない。ポストモダンにたいする揶揄的な批判ならいくらでもあるし、内在的な批判をするなら、デリダやフーコーのテクストをきちんと考察し、分析してみせるべきではないか。

著者にはプラトンについてのモノグラフィーがたくさんあるようであり、その蓄積に基づいて語られるのだろうが、デリダのプラトン読解を批判するのに、著者の「蘊蓄」をもってするので、批判をただ拝読するだけになってしまう。「根源的なところから思考」していることを読者に納得させる力がないのだ。

ただ、「書くことの発明者であるテウトガエジプトの神でもあるという事実の重要性を、デリダは十分に理解していない。……ヘブライの神は言葉を話しかつまた書く。この神の神的活動において、言葉を話すことはと書くことの区別はない。エジプトの神々もまた言葉を話し書くが、二つの活動を区別している。ギリシアの神々は言葉を話すが書くことはない。……ソクラテスは語りはするが書くことをしないギリシアの神である。……プラトンはエジプト人でもなければギリシア人でもなく、ヘブライの哲学者である」(74-76)というくだりはおもしろい。

それにしても「ポストモダンの時代では、見ることは書くことである。したがって書くことは盲目である。盲目のポストモダン人は存在の声を聴こうとする。彼はテクストのページをパラパラとめくる音だけを聴くのである。ダランベールがラモーの甥に取って代わったように、フレーゲはデリダへと脱構築されるのである」(115)のようなレトリックだけの批判がどこまで有効なのか、疑問を感じざるをえない。

コジェーブとシュトラウスの章も、古代人と近代人の対立という著書のモチーフから考察されなければ、もっと有益だっただろう。他の著作で展開されるモチーフを突然持ち出されても困るとしか言いようがない。「プラトンは近代人であって古代人ではなかった」(187)という「結論」も、まったく生きてこない。

それにしても「シュトラウスが採った解決策は、二〇世紀中葉のアメリカという特殊な状況に照らして、自分は賢者であると思って行動しながらアカデミックな管理者たちの特殊な集団によって徳へと「習慣づけられて」いた「保守主義者」と、和解することであった」(183)というが、シュトラウスと保守主義、ネオコンの関係は、まだまだ解明されていない。


2003年9月10日
(c)中山 元

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