分身のこわさ

【書評】クレマン・ロセ『現実とその分身』金井裕訳、法政大学出版局、一九八九年






ふつうに考えられる分身についての考察も含まれるが、もっと哲学的な視野からみた現実と現実の分身についての考察が中心になる。たとえばプラトンのイデアの世界や、本質が現象するヘーゲルの世界だ。訳者によると、ロセは主著の『反自然』において、このプラトンからヘーゲルにいたる系譜と、その形而上学的な世界観を批判するルクレチウスからニーチェの系譜を対比させて、後者にくみしているという。わかりやすいスタンスだ。

最初の「神託の錯覚」の章では、オイディプス王などを例にとりながら、自分が自分であるという自然な錯覚について考察する。ところが、自分は他者であり、他者が自分なのだ。二重化したとき、オリジナルとコピーは区別できなくなる。オリジナルにオリジナルの資格がなくなるのだ。


ロセがいうように、モデルを二重化するとき、「〈別の事件〉は現実の事件のほんとうの分身ではないことに気づくだろう。むしろ逆である。つまり現実の事件の方が、〈別の事件〉の分身のようにみえるだろう。したがって、結局のところ〈他者〉は現実の事件なのだ。すなわち、他者とはこの現実ではあり、つまりはもうひとつの現実の分身である」(50)ということになる。

第二章では、分身の形而上学的な思想が考察される。「形而上学的思考は、直接的なものに対する拒否、いわば本能的な拒否に立っており、直接的なものはいわばそれ自身の他者、あるいは別の実在の代役ではないかと思われているのである」(67-68)。この伝統では、現在は現在としては把握されず、表象という通路をつうじてしか到達することができないとみなされる(70)。

ヘーゲルは本質が現象すると考える。実在が実在として認められるものではなく、本質が現象したものとして「顛倒した世界」という現れるということだ。現実のうちに別の現実の現れを予告するという意味では、ロセのいうように、「神託的思考」が体現されている。この神託の構造は、フィヒテを始めとして一九世紀の哲学を特徴づけている(83)というが、マルクスとハイデガーにも同じ神託の構造があると言えるだろう。

最後の「心理学的錯覚」では、分身の文学的な現れの諸相が考察されるが、ロセがこうした錯覚が生まれる根拠を〈わたし〉の不確定性にみていることは注意しておく価値があるだろう。アリストテレスは、何にでも証明があるべきだと考えるのは、初心者だけだと笑っていたが、「物が現れれば哲学は終わる」としても、確実であるように思えながら、その確実さに根拠がない場所が、哲学の根幹にいすわっているのである。それがわたしだ。

わたしにとって、〈わたし〉ほど自明なものはないように思える。ところがわたしは自分を見ることができない。「私が合理的に私自身に固執するためには、私には可視的であるということが欠けている」(142)のだ。もちろん鏡はあるが、鏡は左右対称のトリックにすぎない。わたしにとってわたしほど確実なものはないのに、ここでわたしがわたしに「物のような確実性」として現れることがない。

だから自己はわたしにとっては不確実なものであり、他者からみたわたしとわたしが自分で信じているわたしの間には、つねに隙間がある。分身はそこにすみついて、ついにはほんものの〈わたし〉を食いやぶってしまうのだ。分身のこわさはそこにある。

2003年9月21日
(c)中山 元

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