着想は面白いのだが……

【書評】瀬口昌久『魂と世界』京都大学出版会、二〇〇二年一二月





プラトンの反二元論的世界像というサブタイトルからも明らかなように、プラトンのいわゆる身体と精神の二元論という解釈が誤解であり、プラトンは魂(プシュケー)の概念で一元論的な世界観を提示していると主張する書物である。

ぼくたちはわかりやすいのでついプラトンの二元論と言ってしまうが、西洋の哲学の伝統では二元論が重要な水脈になっているために、プラトンの二元論をその水脈のねっこのところにおきたいという誘惑が強いのはたしかだ。そしてその伝統を否定しようとするためには、強い腕力が必要になる。


この著書は、古典学系統のさまざまな雑誌に掲載されたプラトン論を、反二元論という視点で統合しようとした書物だ。反二元論が、この書物の軸になっているというよりも、さまざまな論考を束ねる紐のようにみえるのは残念だ。最終章で、この紐を軸にするために、本書でまとめられた論考をこの反二元論という視点から解説するが、こうした解説が必要であったことも、この視点が中軸的なものではなかったことを明かしてしまう。

すでに発表された論考にわずかに手を加えて、そのまま本書に採録したことの欠点は明らかである。論旨の一貫性がみえにくくなり、外国の論者の論点の紹介に、論文の半ばが費やされてしまう。雑誌論文としては有効な書き方も、最初からの通読を求める書物としては辛いところがある。

提示しようとする中心的な視点から完全に書き直していたら、素晴らしい書物になった可能性もあるだけに、もったいないとつい思ってしまう。ただし、プラトンの二元論の批判の軸を、第一部のような心身二元論の批判においてしまうと、議論が限定されてしまうのではないか。第二部以降のような広いところから議論を組み立てるべきだろう。

この議論の中心となる軸は、デュナミス規定とコーラの概念だろう。存在とイデアの両方をデュナミスと把握することで、一元論的な把握が可能となると主張されている。「物体主義者と形相主義者の対立を超えて、すべてを統一的に把握して記述する視座をわれわれに示唆している」(312)と要約されるが、この統一的な視座の説明がほとんどなく、デュナミス規定の説明だけで終わってしまう。

またコーラも、さまざまなデュナミスをうけいれる場であり、生成の養い親になるものであり、媒介的な作用によって魂と物体の運動の相互的な連絡(317)となるものであるが、このコーラについての考察が、さまざまな論文で断片的に述べられるので、いま一つ説得力がない。

プラトンが詩をどう把握していたか(第三部第三章)、自然の美しさをどう理解していたか(第三部第一章)、ディオニュソスとしてのソクラテスをどう乗り越えたか(第一部第三章)など、うまく発展させればおもしろい議論となる論考が含まれるだけに、おしい。
ちなみにディオニュソス論では、ニーチェがソクラテスとディオニュソスを対立して描いていたことを紹介しながら、ソクラテスは実はディオニュソス的な存在であり、「人々には非合理/非常識と思える哲学的狂乱を引き受け、最後までそれに徹した哲学的なディオニュソスとして描かれている」(99)ことが指摘され、プラトンはディオティマの像を描きながら、そのディオニュソスをイデアの理論で止揚したとされている。「ニーチェの最大の不幸は、彼の狂気を浄めて徹底した真のバッコイの道へ誘うキュベレないしディオティマに、彼がついてに出会えなかったことにある」(100)というのが結論だ。ソクラテスにディオニュソスの仮面をかぶらせるのが適切かどうかは、すこし問題が残るが、考えさせられる論考である。


2003年8月16日
(c)中山 元

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