刺激的なヘブライ思想の研究書

関根正雄『イスラエルの思想と言語』岩波書店、一九六二年





まだ、関根氏が枯れて(笑)、抹香臭くなっていないころの野心的な旧約論。晩年になると、信仰心と布教の意志が強くでてきて、旧約もみんなイエスから解読されるようになるのだが、この頃はヘブライの思想とギリシアの思想の比較などに、野心的に取り組んでいる。第一部で、「イスラエルの思想」そのものを考察し、第二部では「ヘブライ思想とギリシア思想」を比較検討する。第三部では「イスラエルの言語」の特性が、思想に及ぼした影響を考える。

第一部の最初の論文「イスラエルにおける王国と預言者」では、王国の時代に限って、国家という軍事・政治的な組織の成立に、預言者がいかにかかわっていたかを、歴史的に考察する。エリア、イザヤ、エレミアと、王国の成立を支えていた預言者が、次第に反政治的になっていくプロセスと王国のはらむ矛盾の問題は、まだまだ考えるべきものを含んでいる(45)。


次の「旧約宗教の合理性」は、ウェーバーの宗教社会学の視点から、旧約宗教がどのようなプロセスで合理化されていったかを検討する。旧約はまず司祭のもとで、「統一的な宗教倫理的な世界観」が成立し、合理化が実現される(57)。しかし司祭の律法はやがて、「停滞化」(ウェーバー)をもたらし、反合理主義をもたらす。これを別の方向で合理化するのが預言者の役割になる。

司祭の律法が倫理的なものではなく、祭儀的なものに堕してしまったところで、預言者が倫理的な預言をもらたすわけだ(68)。これらの預言者のもとで、神はイスラエルの神でも、レビ人の神でもなく、巨大帝国を道具として使う普遍的な神(77)に変身する。


また、預言者の活動のうちには、エクスタティックの側面とロゴスの側面があり、前者は沃地の宗教からうけつぎ、後者は砂漠の宗教からうけついだという指摘は、正しいだろう。もちろんイスラエルとユダの違いはあるだろうが、恍惚の預言は、ギリシアと小アジアの伝統につらなり、ロゴスの預言はアラビアの伝統につらなるわけだ(72)。

「旧約聖書と平和の問題」は、旧約の神が戦いの神であることを指摘しながら、平和(シャローム)の思想が、「戦いの中で、それを貫いて救いへと導く神からの方向に、動的に把握されている」(95)ことが指摘される。平和はパラダイスのもとで実現されるのであり、そこでは動物との戦いも終焉することになる。「動物相互の間、動物と人間との間に、現在は弱肉強食の原理が通用しており、かかることが、広義において、平和と対立する戦争の原理である」(98)というのは、旧約の思想としては、まったくただしいが、それでは平和は永久に訪れないという結論が出てくるのもやむをえない。動物と暴力のむすびつきは、なお深いところでぼくたちを規定している。

「選民イスラエル」は、第二イザヤにおける選びと神の愛の問題考察を深めていて、おもしろい。「残りもの」という概念は、複雑で弁証法的なところがあって、アガンベンでなくとも、使いたくなる。「旧約聖書と愛」では、キリスト教のアガペーの概念を欠く旧約における神の愛について考察する。旧約では、アーハブという概念とヘセドという概念があるが、アーハブは性愛をふくむ激しい愛であり、ヘセドは契約に基づく真の愛ということらしい。ただし関根は旧約ではまだ真の愛がうまれず「愛の福音を指し示す」段階にあったと考えているようだ(131)。

「ヨブ記における創造と救済」は、ヨブが救われるのは、神がヨブの有限性をきびしく指摘し、創造という能力を欠いていることを指摘しながら、最後の段階で海と陸の怪物について語り、「君と一緒に作った」と語る(40-15)ことによってであると指摘する。ヨブはここで「原歴史的な意味で創造の中に再び入れられた」(153)のであり、ここに救済があるという。

関根はこれを旧約の時間概念と結びつける。ボーマンの指摘するように、旧約では夕べ、朝、夕べというように、時間はリズム的である。断続的に反復しつつ前進する。関根はヨブが一度創造から切り離され、原初の創造の瞬間に引き戻すことで、創造のうちに取り戻されるというリズム的な経過のうちに、救済が訪れるというわけだ。

「旧約聖書の神義論」では、預言者における終末思想に神義論が可能となる場があると考える。具体的にはアモスから新しい場が始まる。それまでは民間の信仰においては、神とイスラエルはきわめて親密に結びつけられ、神がイスラエルを罰することができなかった。しかしアモスとともに、神はイスラエルから自由になり、イスラエルを「選ぶ」ことができ、罰することができるようになった。ここでイスラエルが他の国民の一つになり、論理的には「特殊」となり、イスラエルという民族の神が、普遍的な神として登場できるようになったという指摘(162)は興味深い。

「エレミヤにおけるダビデ契約とシナイ契約」は、北王国とシナイ契約、南王国とダビデ契約と考えられていた二つの契約を、エレミヤにおいて、ダビデ契約を否定し、シナイ契約に戻ることで、「新しい契約」が生まれたことを指摘する。

第二部の「ヤハウィストとヘシオドス」では、二つの思想的な流れの類似点と相違点が考察される。ヘシオドスでは、古代東方の四時代説に、ギリシアに特有の英雄時代が追加された。金、銀、青銅、鉄の時代という区分に、半神である英雄の時代が、現在の鉄の時代に先立つとされる。この時代区分では、悪が段階的に増加していくが、人間も英雄にならって勇敢に悪と戦うことでこれを克服できると考えるのである(196)。

これにたいしてヤハウィストの記述にも、原始時代(木の実を食べる、創世記二章)、文明の始まり(着物を着る、創世記三章)、技術工芸の発達(創世記四章)、巨人の時代(創世記六章)、現在の時代(創世記九章)という時代区分がある。ここでは巨人の時代は、悪を克服するものではなく、天使が人間の女性に欲情して生まれた巨人は、否定的な存在である。半神的な英雄の可能性は最初から否定されているのである(197)。

同じように、ヘシオドスでは、悪は希望によって善に変わりうるし、正義は労働とともにある。ところがヤハウィストでは、悪は人間が神に背いたという罪から生まれる。救済は契約から到来するのであり、人間の努力からではない。ヘシオドスではゼウスが定めたノモスが正義をもたらす。ヤハウィストでは契約を記した律法(ノモス)が、人間を救済する。どちらもノモスであるが、この二つののモすには大きな違いがあるわけだ(200-2)。
「ヨブとプロメテウス」では、原初の動物創造と関連したヨブの救済の契機がふたたび取り上げられたのち、『プロメテウス』では、神であるゼウスの「経験」と変貌が想定されているが、ヨブにはそのような契機がまったく想定されていないことが指摘される。ヨブの試練とプロメテウスの試練は、その展望において、大きく異なることになる。この二つの文学の比較は、まだまだ考えてみたい。

第三部のヘブライ語の特殊性についての考察は、ギリシアの特殊性とギリシア哲学のもんだい日本語と日本の思想の問題など、さまざまなことを考えさせる。本書は、ここには書ききれない指摘など、多数の問題を提起した刺激的な書物である。
2003年10月20日
(c)中山 元

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