平等についてのユニークな視点

【書評】アマルティア・セン『不平等の再検討』
池本・野上・佐藤訳、岩波書店、一九九九年







正義と政治哲学の問題は、さまざまな要素の平等と不平等の問題として読めることを説いたセンの政治・道徳哲学の書物。ロールズ以来の沸騰した政治哲学の議論は、たとえばロールズの議論は自由の平等と「基本財」の平等を目指したものであり、ドゥオーキンの議論は資源の平等を目指したものであり、ネーゲルの議論は経済的な平等を目的とし、ブキャナンの議論は、平等な法的・政治的な扱いを目指し、ノージックの議論はリバタリアン的な権利の平等に重点をおいたものと読めるというわけだ(p.18)。たしかに。

センでユニークなところは、平等を考える際に、ロールズのように基本財の平等を考えるだけではなく、人間がその基本財をどのように活用できるかという視点から、潜在能力と機能という視点を提示していることだ。機能というのは、ぼくたちが適切な食事をしているか、健康か、避けられる病気にかかっていないかなど、社会の福祉の基本的なニーズから、幸福か、自尊心をもっているか、社会生活に参加しているかなど、たんに生きているだけではなく、善く生きているかを問うものである。そして潜在能力は、この機能の集合とみなされている(59)。



ロールズの基本財は、ときに経済的な要素に重点をおく傾向がある。ヴェールの仮説からは、相手が善く生きているかは問い得ないものだからだ。相手がどう生きているかではなく、生きるために必要なものを得ているかだけを問題にする。その場合には、社会の福祉の全体的な水準はみえてこないという性質がある。そして社会の間の差異も基本的に問題にしえない。国内の福祉の基本的な水準に議論が集中することになる。

しかし地球的にみてみると、この視点には大きな制約があることがわかる。同じ社会においても、年収が三〇〇万円で、それなりに楽しく健康に生きている人と、年収が八〇〇万円だが、腎臓に疾患があり、透析をうけている人では、生活の貧しさが実質的にどうなのかは比較しがたい。保険が適用されなければ、三〇〇万円の人の方が実際に豊かであるかもしれないのだ。「貧困を所得で定義するのであれば、所得からどのような機能を実現できるかという潜在能力を抜きにして、所得だけでみるのは不十分である」(173)のだ。

また社会がことなれば、もはや所得というのは、あまり有用な物差しではない。情報を自由に入手し、公布できるか、毎日の水道から清潔な飲料水が豊富で安価に得られるか、他者から干渉されずに自由に生きていけるかなど、生活の質を決める要素が、社会的に規定
されてしまうこともある。

また、女性が甚だしく不利な扱いをうけている社会では、所得の多寡よりも重要な機能の欠如が問題になることもある。「読み書きする、女性性器切除をされないですむ、独立したキャリアを歩む自由がある、リーダーシップを発揮することが認められる」(197)など、潜在能力が根本的に制限されている場合もあるのだ。現代の政治哲学はまだ視野が狭いのは、センの指摘するとおりだろう。

ところで最初の諸説の文献を確認しておこう。川本さんには、早く正義論の新訳を出してほしい。
ロールズ『正義論』(紀伊国屋書店、一九七九年)
ドゥオーキン『権利論』(木鐸社、一九八六年)
ナーゲル『コウモリであるとはどんなことか』(勁草書房、一九八九年)
ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社、一九八九年)
ブキャナン『自由の限界』(秀潤社、一九七七年)『公共選択の理論』(東洋経済新報社、一九七九年)

最後にセンの主著の翻訳リスト。『アイデンティティに先行する理性』というのがでているのは、知らなかった。読んでみたい。
□福祉の経済学 : 財と潜在能力 / アマルティア・セン著 ; 鈴村興太郎訳. -- 岩波書店, 1988
□合理的な愚か者 : 経済学=倫理学的探究 / アマルティア・セン著 ; 大庭健, 川本隆史共訳. -- 勁草書房, 1989
□不平等の再検討 : 潜在能力と自由 / アマルティア・セン [著] ; 池本幸生, 野上裕生, 佐藤仁訳. -- 岩波書店, 1999
□集合的選択と社会的厚生 / アマルティア・セン著. -- 勁草書房, 2000
□自由と経済開発 / アマルティア・セン著 ; 石塚雅彦訳. -- 日本経済新聞社,2000
□不平等の経済学 : ジェームズ・フォスター, アマルティア・センによる補論「四半世紀後の『不平等の経済学』」を含む拡大版 / アマルティア・セン著 ; 鈴村興太郎, 須賀晃一訳. -- 東洋経済新報社, 2000
□貧困と飢饉 / アマルティア・セン [著] ; 黒崎卓, 山崎幸治訳. -- 岩波書店, 2000
□貧困の克服 / アマルティア・セン著 ; 大石りら訳. -- 集英社, 2002. -- (集英社新書 ; 0127A)
□経済学の再生 : 道徳哲学への回帰 / アマルティア・セン著 ; 徳永澄憲, 松本保美, 青山治城訳. -- 麗澤大学出版会, 2002
□アイデンティティに先行する理性 / アマルティア・セン著 ; 細見和志訳. --関西学院大学出版会, 2003


2003年9月2日
(c)中山 元

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