楽しい試み

瀬戸和夫『ムーミンの哲学』勁草書房、二〇〇二年六月





ムーミンの漫画、とくに著者の好みのアニメのビデオを分析しながら、哲学の問題をとりだすという楽しい試みだ。ぼくも好きだな、そういうの。もちろんどれほど漫画やアニメの原作から哲学の問題を立てることができるかどうかで、手腕を問われるが、いろいろと考えてみるのは楽しいものだ。

全体的には著者の試みはかなり成功していると言ってよいだろう。最初の章では、西洋哲学におけるタレスの哲学の位置を考察してから、ムーミンの宝物の仮の姿と真の姿を考察して、タレスの独自性に論点を戻す。その結びつけはかなり苦しい(笑)が、ムーミンが好きな読者なら、ふむふむと読みながら、哲学の問題に導かれるだろう。著者の思いいれの強い詩が書かれていたりして、ちょっと(笑)だが、ご愛嬌だろう。



ただし、ムーミンのアニメから、本当にこれらの問題が切り出せるかというと、少し疑問である。最初に哲学史の解説があり、次にムーミンのストーリーがあり、その分析と哲学の問題を結びつけるときに、かなり恣意的な力技に頼らざるをえないところがある。それはまあ、しかたのないところなのかもしれないが。結び付けかたにときおり疑問を感じた。

とくに「秘密と自信」という章では、「哲学のなかには、逆にその内容が分かってくればくるほど、実に嫌な気分になるような、まさにこの意味でグロテスクなものがある」として、ヘーゲルの哲学がこき下ろされる。そしてヘーゲルの『自然哲学』を読み替えて、「幼児心理」として暴くところは、こうした童話の解説にふさわしいものかどうか、疑問に感じざるをえない。

著者はヘーゲルの「自然は自己自身に関係している絶対精神である。絶対精神の理念は認識されているので、この「自己自身」にもまた一つの規定として、さらにそのような関係している精神を、実在的な絶対精神の一契機として認識される」というところを、こう読み替えるのだ。「言っておくけど、現実の僕は自分自身だけに関心があるのであって、そのかぎりで本当の僕なんだ! だけどね、本当の僕という理想どおりの状態は、もう認識しちゃったんだよねェ。だから、こんなふうに「自分自身に」関係しているってことも、一つの妥協にすぎないんだ。それにも、一つの妥協で関係しているこの僕だって、とことん満足した本当の僕になるための、ほんの一つのきっかけとして認識されているだけなんだ」(121-123)。

絶対精神が。自己を絶対的なものとして認識するにたいる道程の一つとされている自然という契機についてのこの著作を、このように読むのは曲解だろう。ヘーゲルを批判するにも、ヘーゲルの意図をきちんと理解してから批判すべきではないか。著者がフィヒテを好み、ヘーゲルを嫌うらしいのは、まったく構わないことだ。だけど、童話の解読という試みにおいて、哲学の初心者にたいして、このようなかなり「いびつな」読解を注入することが、この書物の意図にかなうものなのだろうか。楽しい試みの本だけに、他の章がそれなりに読めるものとなっていただけに、少し残念。
2003年10月18日
(c)中山 元

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