パウロの言語ゲーム

清水哲郎『パウロの言語哲学』岩波書店、二〇〇一年二月






再読。『オッカムの言語哲学』の著書のある清水氏が、パウロの書簡のテクストを読み込んで、言語ゲーム(72)を展開する。そして一般的な解釈の誤謬を提示しながら、パウロの思想とパウロを受け継いだ初期の教会の思想を追跡し、キリスト教の思想がいかにギリシア哲学のアルケーの思想を継いだものであるを示す。わかりよい一冊だ。

著者はパウロの書簡にある信(ピスティス)が、イエスにたいする信や、「保証」のように訳されているが、本来はそのような意味ではなく、神にたいするイエスの信、人間にたいする神への信、そして神が人間の信に応じる信が、この信(ピスティス)という語に含まれていることを示しており、説得力がある。

前半の言語ゲームのまとめは次のようなものだ。
(一)パウロは「イエスを信じる」ことは主張していない。イエスが信という態度をもって生き抜いたことを提示し、自分たちもイエスの信にならって、神にたいして信という態度をとるべきことを主張する。
(二)やがてイエス・キリストが信の対象とされるようになり、それがパウロの考えとされる。
(三)使徒行伝は、パウロがはじめから「イエスを信じなさい」伝道していたという理解を示している(106)。

終末についてのパウロの思想は、たんに未来に到来する出来事への期待というよりも、現在の生き方の方向を定めるものであり、現在の生き方を律することによって、未来にその実をえようとするものではなく、未来における終末が現在の生き方を方向づけているという終末思想も、たしかにそうだろうと思わせる(160)。

最後の章は、ギリシアのアルケーのさまざまな理論をとりあげながら、キリスト教の思想、とくにアテネでのパウロの演説が、ギリシアの人々が存在すると信じながら、見極めをつけていないアルケーが、キリスト教では天地を創造した神とロゴスという形で明示されていることを指摘する。「はじめにロゴスありき」というわけだ。そして教父たちも、ロゴスがアルケーであるという応答と、「無からの創造」という教義で、この理論を深めたことになる。パウロとは少し離れながら、ギリシアの思想とヘブライの思想の結びつきを考えるには、役立つ章だ。ロゴス論だけで、ギリシアのアルケーへの応答というのは、少し弱いような気がするが。

目次

第1章 イエスの信
第2章 「ディカイオス」の言語ゲーム
第3章 イエスの信からイエスを信じる信へ
第4章 イエスは何者か
第5章 復活と終末
第6章 使徒行伝のパウロ像
第7章 アテネのパウロとギリシア哲学
第8章 アルケー論と無からの創造

2003年10月17日
(c)中山 元

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