仮面劇の政治学

【書評】ロイ・ストロング『ルネサンスの祝祭(下)』
星和彦訳、平凡社、一九八七年



この第二部「見世物と政治」では、とくにスチュアート朝における宮廷仮面劇の章に注目。国王の建築監督のイニゴー・ジョーンズと詩人のベン・ジョンソンの協力で生まれたこの仮面劇は、「統治者の原理を理想的に表現する祝祭形式」(p.120)として、とくにスチュアート朝では王権神授説が公式に表明されてから、ねりあげられた。エリザベス朝にはみられなかったイデオロギー的な精神が横溢した劇となるわけだ。

この仮面劇ではプラトン主義を哲学的な基盤として、「人間の生の鏡」(ジョンソン)となろうとする。ここでは観衆が必須であり、「宮廷の人々は、鏡をみるかのように宮廷仮面劇の中に、自分たちの現実の姿をみている。仮面劇の山場はつねに、仮面をつけていた役者自身がその姿を現すそのときである」(p.124)。



そして機械仕掛けを活用しながら、君主の荘厳さが表現される。王は人間の神であり、家庭の父であり、身体の頭であり、その地位を示すために、劇が仕組まれるのだ。フランスなどで一七世紀に流行した「王の鏡」の理論が逆転して、王の鏡は王を教えるものではなく、王がその身体に体現した原理を写しだすものとなる。

チャールズ一世の宮廷の絶対主義の支配の原理は、「権力は愛なり、というのである。対立や叛乱は、鎖を解かれた感情であり、国王こそ人間のまた宇宙の秩序、寛大、洗練、自然、平和である」(p.142)。この仮面劇に、観衆は「道徳的かつ政治的な真理を理解した」というが、この抑圧的なパターナリズムが国王の首をはねさせる一因となるのだから、恐ろしい。

一六四〇年には、イギリスは国家の危機を迎えるがチャールズは仮面劇の稽古を毎日繰り返していたという(p.154)。この時期には王は愛をとくのではなく、忍耐し辛抱することが美徳とさなれる。台詞によると「おお、かの人以外のだれが、かくも耐えられようか。陰鬱な時代に生きて支配することが、人々の愚かさを取り除くことが、人々の怒りに抗することよりも、はるかに苦しいときなのか」(ibid.)。劇場が政治的な場の中心となる時代が終わりを告げようとする。


2003年8月28日
(c)中山 元

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