プラトン哲学の読み直し

高橋憲雄『自由と権威の相剋』晃洋書房、一九九二年






わかりにくいタイトルだが、「道徳・政治哲学の根本問題にたいするプラトン的視点からのアプローチ」という長いサブタイトルからわかるように、社会における自由とプラトン的な権威による強制との対立を、政治哲学的に考察するために、『ゴルギアス』におけるソクラテスの立場を考察し、『国家』の哲学者王論で補足するというもの。現代社会に生きるぼくたち「大衆」という視点から、プラトンの哲学を読み直そうとする試みだ。


プラトンの『ゴルギアス』に次々と登場する人物にたいしてソクラテスがどのような対応を示すかを、細かに分析しながら、その欠陥なども指摘していくという意味では、『ゴルギアス』のわかりやすい注釈書となっている。『ゴルギアス』でもっとも重要なのは、カリクレスとのやりとりでのおべっかと弁論術の議論だろう。

ソクラテスはアテナイのデーモスにたいして、おべっかを使う弁論家と、真正の意味での弁論家がいることを示唆する。ソクラテスは「真の技術」としての弁論術を一度肯定する。この技術は、「国民の魂ができるだけすぐれたものとなるようにとはかって、自分の言葉が聴衆に快く響こうが、不快に聞こえようが、それにはかかわりなく、終始一貫ただ最善のことがら語ろうとする」(『ゴルギアス』503A)ものであるはずだ(99)。

しかしソクラテスはこのような弁論家がだれもいなかったと断定する。そしてテミストクレスやペリクレスなどは、国民の欲望を満たすことに長けていただけだったと語るわけだ。そして真の技術は、国民がもっとも優れた人間になるために必要なことがらへと「説得」や「強制」によって導いていくことが必要だと訴える。そして哲学者や賢者、すなわち真の技術をもつものは、その国民がもっとも必要なものを、認識するあるものだということになる。

著者はここに、プラトンの権威主義的な性格をみいだす。そこからあとは、『国家』にいたるまで、真っ直ぐに線が引けるのはたしかだ。プラトンは優生学的な「育種」の思想まで語り始めるからである。ただ、ぼくはこのあたりはもう少しとどまって考えるべきものだと思う。アテナイの国家はたしかに崩壊していくかにみえる。しかしそれは真の政治の技術者の欠如だけでは説明できないものだろう。ペロポネソス戦争に破れた後のアテナイでは、かえって統制のとれた民主主義的な制度が構築されていくことは、アリストテレスの『アテナイの国制』からも明らかなのだ。

そしてギリシアのポリスが最終的に崩壊するのは、プラトンやアリストテレスの政治哲学では乗り越えられない地平に到達してしまうからだ。だから真の技術者がいたところで、歴史的にはポリスはその使命を終えていたのである。そして真の技術者の声は聞かれないだろうし、著者が語るように、「挑発者」としての役割だけが残されるだろう。そしてアテナイの四世紀における民主制度の仕上がりをみると、その声はしっかりと聞かれたといえるのではないだろうか。

現代の大衆消費社会における市民の自主性という著者の眼目はよく理解できるが、古代のアゴーンの社会、自由人の男性だけが競いあうポリスの社会における政治哲学と、現代の社会における政治哲学を、そのままでは対置できないのではないかと思う。たしかに現代の政治家たちは、偽の弁論家のようにふるまうとしても、「現代のソフィスト」とリベラリストの批判を、ソクラテスやプラトンの立場からすることには、いささかの疑問が残る。とはいえ、思考を挑発するのが哲学者の役割であり、有益な書物ではある。
2003年10月28日
(c)中山 元

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