東洋と西洋の自然と身体

【書評】湯浅泰雄『身体の宇宙性』岩波書店、一九九四年




ユング研究書を多数著している著者による身体論。身体だけではなく、自然についての東洋と西洋のうけとめ方の違いについて、詳しい考察がある。身体と世界の関係については、文化ごとに異なるところがあり、市川浩も東南アジアの例をとりながら、世界を生きる身体の文化的な差異を示していた。

本書では序章で神話的な思考を取り上げ、第一章では東洋的な思考、第二章では西洋の思考を考察する。ぼくたちは東洋の世界に生きているが、ごく古代的としか言いようのない直観的な思考の層と、東洋的といってよいような思考の層と、西洋的な二元論的な心身論的な思考の層が重複し、ときにメビウスの輪のようにねじれて存在している。日本という国で身体について考えるのは、困難な問題を伴うのだ。



だからこの著書で、東洋的と言われていることもピンとこなかったり、西洋的と言われていることも、ごく当然のように感じたりもするわけだ。自己はもっとも自明なものであり、もっとも晦瞑なものでもある。他者からみえるものが、本人には見えないことが多いのは、たんに顔だけではない。

いくつか例をあげてみよう。著者はインドでは輪廻が重視されるので、自然をみるときには、生命体としての人間と動物の生態が主な関心の対象となる。中国の伝統では、自然とのかかわりのうちで人間が生きていくための技術を重視する。ここに「キリスト教に支えられた西洋の自然観とは正反対の性格をもつ、人間と動植物を一つに包み込んだ生命的自然観が展開してくる」(p.143)という。東洋的な自然観が生ける汎神論的自然としてとらえられる(P.144)という指摘は、わかりよいが、果たして今のぼくたちの自然観をこうした伝統のうちで語りうるのだろうか、少し疑問になるところだ。

良心観についても、同じような感想がある。「東洋の良心は放心の反対概念であって、この対比は実践的努力によって到達すべき人格の理想状態と現実の自己の状態を対比してる。つまり西洋のコンシャンスは、社会的人間関係という水平の場にいる主体であるのに対して、東洋の良心は宗教性を帯びた「天」と結ばれた「聖人・君子」の境地に近付こうとする垂直の場に立つ主体である」(p.206)と語られるが、これも視点の違いでは、まったく反対のことを言いうるだろう。

たしかにカント的な定言命法の世界では、「西洋の良心論は、自然認識の場面と同様に、主観と客観の関係を前提し、客観(この場合は道徳法則の体系)を認識する知についてとうている」(p.206)と言えるだろう。しかし西洋のキリスト教的な良心が、こうした定言命法的に良心だけではないことは、ハイデガーが『存在と時間』で詳しく示したとおりだ。

そもそも西洋のキリスト教的な世界は、アレントが指摘しているように無世界論的な傾向が強い。究極の良心は、社会の他者との間ではなく、唯一の神との間で結ばれる。右手のすることを左手に知らしめるなということは、良心の判断の基準は他者や社会ではなく、神との垂直的な関係だけにあるとも言えるからだ。東洋的な社会において良心とは、たしかに「天」との間で結ばれるとともに、社会の面子が良心をうらから支えているとも言えるはずだ。日本の社会では「天」の概念が稀薄なだけに、良心が垂直的ではなく、水平的な構造をとくに強くそなえているとも言えるだろう。

西洋の自然と身体の認識といっても、デカルト的な二元論だけに限られるわけではないし、朱子学・陽明学的な「理気」の哲学が東洋の心身論を決定しているわけでもない。言われねばならないことが多すぎるので、簡略化は必要だろう。それでも最後に近代的な思考をのりこえるために東洋の思考を活用するというユング的な道に招かれると、ちょっと待ってほしい言いたくなる。ぼくにとっては、まだまだ立ち止まって考えるべきことが山積みなのだ。ただユングの共時性の概念はおもしろい。もう少し調べてみよう。


2003年87月2日
(c)中山 元

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