ハーバーマスのマールブルク講演

哲学クロニクル180号

(2001/07/02)




ハーバーマスがついに(笑)生命倫理論争に加わった。ハーバーマスはつねにその時点でのホットなテーマについて見解を表明してきた人物で、いわば一種の「時代指標」のような役割を果たす人物だった。その意味ではハーバーマスの理論に対する異論とは別として、ぼくはずっと敬意を払ってきた。

ところで今回ハーバーマスが講演したマールブルクは新カント派の拠点ともなった大学都市で、もっと南のハイデルベルクのように、おなじ大学都市でもすっかり観光地となった都市ではない。旧市街の中心に小さな城はあるが、観光客がやってくることもなく、しっとりと落ち着いた大学町だ。ハーバーマスは四〇年前に『公共性の構造転換』をマールブルク大学の教授資格請求論文として提出し、大学に受理されて、私講師として就任し、大学で演説した。今回はそのおなじホールでハーバーマスは、話題の生命倫理のテーマで講演したのである。

フランクフルター・ネントシャオ紙の6月29日号に発表されたマルチン・アルトマイヤー氏の報告によると、ハーバーマスはまず生命倫理についての二つの立場を批判した。警告主義と原則主義である。警告主義とは、遺伝子操作に人間の飼育のプロジェクトの端緒を見出だそうとするものであり、原則主義とは、人間の生命の保護という原則的な主張を貫こうとする立場で、初期の段階の胎児にも、人間の人格の絶対的な権利を認めようとする立場だ。ハーバーマスはこのどちらにも組みせずに、現在の技術的な状況によって可能となったものについての理論的な検討と、道徳的な問題から予想される事態に基づいて議論を構築しようとする。

そのためにハーバーマスは一つのシナリオを提示する。着床前診断が許可されて、遺伝子操作の可能性の幅が広くなり、遺伝病の遺伝子治療的な予防が可能となったと想定する。その場合には、いわば「消極的な優生学」と、これまでの「積極的な優生学」を区別するという逆説的な要請が生まれることになる。積極的な優生学とは、アーリア人種のような「望ましい」人種を積極的に作り出そうとするものであり、天才や特別な特徴(美や知性など)を高めるための操作もこれに含まれる。消極的な優生学とは、欠陥のある個体の誕生を妨げること、またはこうした欠陥をなくすことを目的とする。

問題なのは、長期的にみると、この消極的な優生学は、健全な個体を作り出すという積極的な優生学と区別できなくなることだ。自然の生成と、技術的な作為の区別、「われわれという自然と、われわれが自らに与える有機的な装備」との区別がなくなるのである。ここで問題となるのは、胎児に備わっている人間としての尊厳というような議論ではなく、人間の類としてのアイデンティティにかかわる議論である。人間はどこまで類としての自己に手を加えることができるか。どこまで手を加えると、人間のアイデンティティは喪失するかということだ。「肉であることと、身体をもつこと」(ヘルムート・プレスナー)の間の人間学的な関係が問題になってくる。

人間の有機的な遺伝子に操作を加えることは、類としての人間の倫理的な自己了解だけではなく、それぞれの個人の倫理的な自己了解にも影響するようになる。ハーバーマスは、生命技術によって、自然環境との道具的な関係が、人間の内的な自然にまで延長されるようになると、「技術的な物質加工」の行動モデルが、「教養を伴うつきあい」が必要な領域にまで適用されるようになってしまう危険性があることを指摘する。胎児を遺伝工学的にモデリングする試みは、その試みが成功するかどうかとはかかわりなく、胎児を人間が利用する対象としてしまうものである。

この場合には、両親の願望と幻想によって、子供が養育のための対象=物体になってしまうのではないだろうか。家族の外的な状況や、子供の社会的な環境というものは、子供ができるかどうかという客観的な要因とは別のものではないだろうか。ナルシシズムに動かされた両親や、子供を育てたい両親、あるいはたんに子供の将来を思いやる両親が、遺伝子操作をして、子供の生涯をあらかじめ定めてしまうようになるのではないだうか。そして将来は子供は主体としてではなく、客体や製品のようになってしまうのではないだろうか。

ここまではごくありふれた仮定と考察であり、これまで新聞やSFなどで繰り返し考えられ、取り上げられてきたことだ。しかしハーバーマスはこのような考察に基づいて、二つの道徳哲学的なテーゼを提示する。第一のテーゼ:遺伝型に対する優生学的な操作は、個人が自己の生を拘束されずに形成し、展開していく自由の余地を狭めてしまうものである。ここでは第三者の意思が働き、その主体にはこれを覆すことができないからである。第二のテーゼ:創造者とその製品の間に、ゆがんだ非対称的な関係が生まれる。これは「ある種のパターナリズム」であり、期待の相互性を許容せず、民主主義的な社会の原則的に平等な関係の裏をかこうとするものである。

構造的な暴力、経済的な搾取、社会的な無力化などの形式の暴力には、もっと別の関係がありうることがわかっているために、ぼくたちは警戒することができる。こうした暴力に対しては人々は憤慨するものだが、それは社会のすべての成員は、人格として相互に尊敬し、承認しあうべきものだということが暗黙のうちにも前提とされているからだ。しかし遺伝型の偶然的な構成が、遺伝子操作によってある目的のもとで修正された場合には、こうした普遍的な道徳の土台が脅かされることになる。遺伝子操作のプログラミング計画は、「武装を解除するような」依存性を作り出すことになり、操作された人物は、操作した人物に、平等な個人として反抗することはできなくなる。

この講演を通じてハーバーマスは、悪意のある優生学的な遺伝子操作にはそれほど懸念を抱いていないことを強調している。それよりも心配なのは、世論では着床前診断を認めるべきだとされていることから、こうした需要によって、利益志向の生命科学産業が、両親を顧客とみなし、優生学的なさまざまな選択肢を提供することで、両親を誘導していく動的なプロセスのほうである。

ハーバーマスの懸念はもっともだ。ハーバーマスは理想的な対話状況の理念のもとに、無数の両親に、彼の普遍的な道徳の原理を訴えるつもりだろうが、人々の欲望は、科学的な「真理」の確定とは異なるプロセスをたどるものだ。ハーバーマスの普遍的な道徳の原理は、論理的には明確で、適切なものだ。それだけにハーバーマスの理念と人々の欲望の論理の違いがあらわになる講演だったと言えるだろう。