邪悪な歓び−−クロソウスキー追悼

哲学クロニクル185号

(2001/08/18)





クロソウスキーの追悼として、ルモンドに掲載された文章の抄訳をおみせします。クロソウスキー論はどれも訳すのに骨がおれます(笑)。フーコーのクロソウスキー論もまた難解ですね。遠藤周作はパリでなんどもクロソウスキーとあっているようです。「クロソウスキー氏は少し息苦しそうに肩で呼吸をしながらかすれた声でしゃべった。彼の著作の文章はひどく読みづらいが、話が自分の考えをひきだす時になると、神父のように合掌した両手を口にあてて一語一語をつないでいく」(『歓待の掟』の邦訳から)そうです。

遠藤周作の文章もなかなか分かりにくく(笑)、次のように書いています。
「岡本太郎氏とも若い頃、親しくしていたと言いながら、『ええ、神学校を…つまりそういう路を放棄したのです』と母がリルケと親しくしていたことを言った時の彼の顔は、一瞬であったが、くるしげにこわばった」。論理のつながりがまったくわからん(笑)。遠藤周作は、クロソウスキーがリルケの隠し子であるという噂について、本人に聞いたのだろうか。ひさしぶりに『わが隣人サド 』でも読み直そうかなぁ。

邪悪な歓び−−クロソウスキー追悼
(パトリック・ケチチャン、ルモンド紙、2001年8月13日)

作家のピエール・クロソウスキーが8月12日の日曜日に、パリで亡くなった。享年96歳。半年前には画家で弟のバルテュスがこの世を去ったばかりである。クロソウスキーはラテン語のウェルギリウスからドイツ語のヘルダーリン、ニーチェ、ベンヤミンなどの多数の翻訳がある。

ミシェル・フーコーは『アエネイス』の邦訳にふれて、「クロソウスキーはフランス語とラテン語の類似性に身を落ち着けない。この二つの言語のもっともおおきな差異の空隙にとどまり続ける。…この種の翻訳は、まるで作品の陰画のようだ。これはその作品を受けいれる言語の中に刻み込まれた作品の軌跡なのである」とのべている(フーコー「血を流す言葉」)。

1930年代の半ばに、クロソウスキーはジュルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワ、アンドレ・マッソンなどと親しく交遊した。1937年から1939年までは、パリの社会学研究会で活動した。この研究会での発表から、サドの考察を開始し、1947年には『わが隣人サド 』を発表する。1939年からは宗教的な省察を深め始めた。

その後ドミニカン修道会で修練士となり、サンマキシムとリヨンで神学研究を続けた。パリには1943年に戻り、この頃にラカンと知り合っている。戦後にクロソウスキーはドニーズと知り合い、結婚する。妻ドニーズは「ロベルト」として、彼の小説のインスピレーションの源泉となった。1965年には『ロベルトは今夜』『ナントの勅令廃棄』『プロンプター』の三冊が『歓待の掟』としてまとめられた。これと並行してクロソウスキーのエッセー集も刊行された。『ディアーナの水浴』『ニーチェと悪循環』『かくも不吉な欲望』である。

クロソウスキーの世界には、神学的な思弁、サディズムと少年愛の要素の強いエロティシズム(ただし俗っぽさはまったくない)、ローマを中心とした神話などで織りなされている。驚くほどの知性、中世のスコラ哲学から受け継いだ議論癖、冷静なイロニーをもって、クロソウスキーは自分の偏執性について、さまざまな場所で繰り返し語り続けている。クロソウスキーは自分のことを「作家でも、思想家でも哲学者でもなく」、「偏執家」とでも呼べるべき存在だと語っているのである。『歓待の掟』は、妻を客の歓待に提供する夫の偏執的な論理が詳細に描き出されている。

1970年からはクロソウスキーは小説を書くのをやめてデッサンに熱中する。デッサンでもクロソウスキーはこの『歓待の掟』の世界を描き続ける。フランスでも外国でも展覧会が開かれ、小説家よりも画家として有名になり、おおくのファンを獲得した。クロソウスキーは自分のみているもっとも「本物のビジョン」は、書いたものではなく、描いたものの世界にあると語っていた。

クロソウスキーのデッサンは小説を延長し、説明する。計算されたエロティシズム、見神家の要素を含む窃視への偏執が、デッサンにもつきまとう。両義的な姿勢をとった少女という存在の魅力は、弟のバルテュスの絵画を思わせる。しかしクロソウスキーは弟の絵をモデルにしたことはないと語り、ウィリアム・ブレイクやホガースを手本にしているという。

クロソウスキーの世界はシミュラークルと原型の世界である。歓びとイロニーに満ちた遊びの世界である。クロソウスキーの作品は小説もデッサンも、邪悪な歓びとでも呼べるものをわたしたちに伝えているのである。