ワーグナーとユダヤ人

哲学クロニクル189号

(2001/08/22)





午後2時には鎌倉にいた台風11号でしたが、その後はどこにいったのか…。
みなさまのところは被害はなかったでしょうか。

ところで、ことしはマルローの生誕100年なのですね。フランスでは各地で記念の催しものが開かれます。ノルマンジーのセリジー・ラ・サルでは「世紀は変わる−−アンドレ・マルロー」という会議が、国際文化センター、パリ三大学のマルロー研究センター、カーエン大学の共催で8月24日から31日まで、1週間にわたって開催されます。会議のテーマとしては、「マルロー、写真と芸術」「アンドレ・マルローにおける時間の思想」などあります。

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7月7日にダニエル・バレンボイムがイスラエルでそれまでタブーとされていたワグナーの演奏を行った。正式なプログラムが終了した後に、聴衆と議論して、反対する人が退場した後に、聴衆の同意のもとに演奏されたという。

バレンボイムは、「ホロコーストの関係者が聴きたくないのはよくかわるが、ナチスと関係なく、聴きたい人にまで禁止するのはおかしい」と、「民主主義の原則の問題」と判断したという。シャロン首相は「演奏すべきではなかった、時期尚早だ」と批判し、国会の文教委員会は24日に「公式の場で謝罪しなければ、国内での演奏活動を認めるべきではない」という異例の決議を下している。

果たしてバレンボイムの意見はどうなのか。1998年春に発表されたサイードとバレンボイムの対話に耳を傾けよう。ワグナーが音楽の歴史で果たした巨大な役割を強調したバレンポイムは、ユダヤ人問題についても率直に語っている。

サイードとユダヤ人という問題は、ある意味で避けることができないものです。ワグナーはオペラで、ユダヤ人ではない人物を示すのに、ユダヤ人のカリカチュアを使っていますね。
バレンボイムワーグナーの反ユダヤ主義的な見解と、書物おそろしいほどのものだと思います。そして24時間を一緒に過ごす作曲家を選ぶとすれば、ワークナーは選ばないでしょう。モーツァルトとなら、楽しく過ごせるでしょうが。

サイードワーグナーをディナーには招かないのですね。
バレンボイム研究の目的なら招くでしょうが、楽しみにはね。ワーグナーは人間としてはぞっとするぼと卑劣な人物で、彼の書いた音楽から想像するのはとても困難です。彼の音楽は、正反対の感情を生み出すことが多いのは不思議なことです。でも作品の中で、反ユダヤ主義的な表現を使っているのはたしかです。

しかしナチスはワーグナーのアイデアや思想を濫用しました。反ユダヤ主義は、トヒラーが発明したものでも、ワーグナーが発明したものでもありません。数世紀も前から存在していたのです。そしてワーグナーのオペラには、シャイロックのようにユダヤ人を嘲笑するための人物は登場しないのです。

サイードしかしワークナーは、反ユダヤ主義の言語、アイデア、イメージの中から、利用できるものを利用したのは事実ですが。

バレンボイムワーグナーの反ユダヤ主義と、われわれが彼の音楽で連想するものを、切り離して考える必要があると思います。これはイスラエルにおけるワークナーの演奏の問題ともかかわってきます。トスカニーニは、1930年と1931年にはバイロイトに戻ることを拒んでいます。ナチスのため、ヒトラーがバイロイトにつくった収容所のためだと思います。

トスカニーニはバイロイトではなく、テルアビブを訪れて、パレスティナ・フィルハーモック・オーケストラを演奏しました。プログラムには、ブラームスの交響曲第二番、ロッシーニの序曲、そしてワーグナーのローエングリンの第一幕から第三幕までの序曲が含まれていました。当時はそのことについて、何も問題にされなかったのです。だれも批判しませんでした。オーケストラも、楽しそうに演奏していました。その当時もワーグナーの反ユダヤ主義についてはよく知られていました。だからイスラエルでのワーグナーの演奏は、ワーグナーの反ユダヤ主義とはまったく関係がないのです。

しかし1938年11月の「結晶の夜」の後に、オーケストラはナチスがワーグナーの音楽を利用したことを理由に、ワーグナーを演奏しないことを決めました。楽譜を焼き捨てて、二度とワーグナーを演奏しないことを決めたのです。これが事実です。それ以外のすべてのことは、オーケストラの外部の人々の反応であり、演奏に賛成する人も、反対する人もいたのです。

わたしがいいたのは、ワーグナーの反ユダヤ主義は忌まわしいものですが、それとナチスがワーグナーの作品をどう利用したかは区別する必要があるということです。ワーグナーを聞くのは耐えられないという人々がいます。ワーグナーの問題がさかんに議論されていた頃、テルアビブである女性と会いました。彼女は「あなたはどうしてあれを演奏できるのですか。わたしは、マイスタージンガーの序曲が演奏されているさなかで、家族がガス室に送られるのをみていたのです。なぜあれを聞かなければならないのですか」とわたしに言ったのです。

答えはかんたんです。聞かなければならない理由などありません。ワーグナーをだれかに強制して聞かせるべき理由などありません。その当時、テルアビブのオーケストラはワーグナーを演奏する意志がありました。もう一度議論した結果、二度と演奏しないという決定を覆して、閉じた場所で演奏しようというものです。ワーグナーを聞きたくない人が、聞くことを強制されるような場所では、演奏しないと決定したのです。

そこでわたしは、聞きたくない人はこなくてもよいコンサートで、聞きたいひとだけが特別にチケットを購入するシステムのコンサートで演奏してはどうかと提案しました。しかしこれは許可されませんでした。政治的な濫用があったからです。これもユダヤ人とワーグナーの関係の歴史のひとこまです。