哲学の終焉か、新たな出発か

哲学クロニクル195号

(2001/09/01)




哲学の終焉か、新たな出発か
−−ウィトゲンシュタイン・シンポジウム
(ノイエ・チュリヒャー・ツァイトゥンク、2001年8月31日、マティアス・クロス記)


ウィトゲンシュタインの没後50周年を迎える今年、ウィトゲンシュタインが小学校の教師をつとめたオーストリアの「寒村」のキルヒベルクで、多数の人々の参加のもとに、24回目のウィトゲンシュタイン・シンポジウムが開催された。テーマは「ウィトゲンシュタインと哲学の未来−−死後50年を迎えた新たな評価」である。

しかしこのセミナーで新しいウィトゲンシュタイン像が描かれたのかどうか、哲学の未来がどうなるのかは、100名近い講演者もそれほど明らかにできたわけではない。哲学の未来について質問されたスタンリー・カヴェル氏は、「だれにも未来のことはわからない」と慎重だ。しかし氏によると、ウィトゲンシュタインは現代の主観性の重要な診断者であり、精神のありかたについての哲学者であり、現代の不安、喪失、疾患、変形の病理学の哲学者である。

形而上学的な故郷喪失と現代の疎外にたいして、ウィトゲンシュタインは概念の意味の複数性の原則を提示しただけではなく、論理的に正規化された言語を日常言語に還元する方法を示した。さらに読者を文学的にたのしませる享受の美学を提示し、哲学的な問題の参照的な解決によって生まれる思考の安らかさをもらたしたという。

カヴェル氏は、ウィトゲンシュタインの作品は哲学の世界でかなり受け入れられているものの、まだその本来の意味において受け入れられていないと考えているが、一週間にわたるマラソン・セミナーのおおくの発言でも、これは裏付けられた。ドイツでウィトゲンシュタイン用語辞典を刊行しているハンス・ヨハン・グロック氏は、哲学は語るだけであるというウィトゲンシュタインを、自分の解釈のうちに取り入れることができないと述べている。

ドイツの分析哲学の分野で、ウィトゲンシュタインの解釈の中心的な専門家であるアイケ・フォン・サヴィニー氏は、ウィトゲンシュタインが自己欺瞞をおかしているのは遺憾だと発言した。ウィトゲンシュタインはじぶんの営みをきちんと把握していなかったという。氏によると、ウィトゲンシュタインは哲学の「終焉」について語っているが、ウィトゲンシュタインが終焉させたのは、哲学そのものではなく、哲学の前史にすぎないという。ウィトゲンシュタインとともに、「良き哲学」、すなわち分析哲学が始まるのだという。

哲学者のジャーコ・ヒンティカと論理学者のアンナ・マイジャ・ヒンティカも、この意見を間接的に裏付けている。ウィトゲンシュタインはじぶんの思考を体系的に整理した哲学の「建物」に構築することができなかったが、これはウィトゲンシュタインの失読障害の兆候と解釈する必要があるという。ウィトゲンシュタインは鏡文字で日記を流暢に書いているが、これもその兆候だという。

また『論考』については、コーラ・ダイアモンドが講演し、ウィトゲンシュタインは『論考』の文章は無意味だと語ったが、これは「深い意味での」無意味と解釈する必要があるという。ウィトゲンシュタインの目的は、「最後の」妥当な哲学を確立することを目的としたのではなく、認識論的な問題と形而上学学的な問題を解決するために西洋の論理学と哲学のうちで作り上げられた戦略が、使い物にならないことを明らかにすることにあるという。

ウィトゲンシュタインがこれを明らかにしたことにおいて、ウィトゲンシュタインを西洋の哲学の歴史における偉大な「アウトサイダー」として、新たに評価し直すことができるというのがダイアモンド氏の見解である。周知のようにウィトゲンシュタインは、この哲学的な伝統を最終的に消滅させようとししたのであり、ウィトゲンシュタインの言語哲学は、思考の最後のゲームと考えられていたのである。

ウィトゲンシュタインの哲学が将来の哲学にどのような役割を果たすかというセミナーの本来のテーマについては、どの発言者も及び腰だった。ウィトゲンシュタインの哲学を、生命倫理の分野での倫理的な問題、量子力学、21世紀の科学技術に適用しようとする講演もあったが、文献学的または哲学史的な細部についての発言の山に埋もれてしまったようである。

ベルリンの哲学者のディーター・メルシュ氏は、ウィトゲンシュタインの哲学とハイデガーの哲学を架橋しようと試みたが、一部で激しい異論がまき起こった。こうした21世紀におけるウィトゲンシュタインの道はまだ切り開かれていない。ウィトゲンシュタインの作品をうやむやのうちに聖なる書物に祭り上げるようなことをしたら、この道はまったく塞がれてしまうだろう。