民主主義はどこへ

哲学クロニクル199号

(2001/09/21)




今回は、9月24日号(9 月17日発行)の『ニューヨーカー』に掲載されたスーザン・ソンタグの文章をご紹介しよう。原文からちょっとだけ離れた訳だ。タイトルは原文にはない。でもサンタグの憤りぶりはさわやかだなぁ。

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この火曜日にわたしたちは、怪物的な形で現実に直面させられたというのに、公的な立場にある人々やテレビのコメンテーターたちは、独善的なたわごととまったくの欺瞞をわたしたちに押しつけている。この落差は驚くべきであると同時に、びとく落胆させられるものだ。

この事件を追跡することを制度的に認められたコメンテーターたちの声は、公衆を幼児化するキャンペーンに力を合わせているとしか思えない。今回の事件が「文明」「自由」「人間性」そして「自由世界」とかにたいする「卑劣な」攻撃などではなく、世界の超大国と自称する国への攻撃であり、アメリカがこれまで採用してきた具体的な協力関係や行動の結果として行われたものであることを、だれもが忘れてしまったのだろうか。アメリカが現在、イラク爆撃を進めようとしていることを認識している市民はどのくらいいるのだろうか。

それに「卑劣な」という形容を使うならば、他の人々を殺すためにみずからの命を捨てる人々ではなく、報復されるおそれのない空の高い場所から他人を殺す人々に使うほうがふさわしくはないのだろうか。またこの言葉が、道徳的には中立的な勇敢さにかかわる「臆病」という意味だとするなら、火曜日の虐殺の実行者たちは、けっして臆病などではない。

わが国の指導者たちは、なにも問題はないとわたしたちに信じさせたがっている。アメリカはなにも恐れないという。アメリカの精神は無傷だが、この攻撃が行われた日は汚名の日であり、アメリカはいま、戦争状態にあるという。しかし問題がないなどとはいわせない。これはパール・ハーバーとはちがうのだ。わたしたちの大統領はまるでロボットのように、アメリカは屈しないと保証し続ける。現職の政治家もそうでない人々も、公的な立場にあるさまざまな人々も、現政権が海外で推進している政策には強く反対していても、ブッシュ大統領を支援するために力を合わせると語るばかりだ。

アメリカの諜報組織と対抗諜報組織の無能力について、アメリカの外交政策で利用できるオプションについて、とくに中東でどんなオプションが利用できるかについて、賢明な国防計画はどのようなものであるかについて、多くのことを考えるべきだし、ワシントンやその他の場所で現に考えられているはずだ。

しかし公衆に、現実の重みを担うことを求める声はない。昔のソ連の共産党会議では、だれもが自党のすることを全員一致で祝福しあっていて、軽蔑されていたものだった。しかし最近の数日間に、アメリカの当局者とメディアのコメンテーターは、現実を隠蔽しながら、制裁を支持するレトリックを全員一致で滔々と語りつづけている。これは成熟した民主主義には、なんともふさわしくない事態ではないか。

公的な地位についている人々は、信頼感を醸成し、悲嘆を制御すること、すなわち人々の心を操作することを自分のつとめと考えていると明らかにしている。しかし民主主義における政治とはなにか−−それは意見の対立を前提とし、率直に語ることを奨励するものではなかったか。いまやアメリカには、政治の代わりに、精神療法しかなくなった。もちろんわたしたちだれもが悲嘆にくれるべきだ。しかしだからといって、みんなが愚か者にならなければならないというものではない。

歴史を少しでも振り返ってみれば、いまなにが起きたのか、これからなにが起ころうとしているのか、理解を深めることができるはずだ。わたしたちは、「わが国は強国だ」と何度も何度も、繰り返し聞かされてきた。しかしわたしはこの言葉を聞いても、ちっとも慰められない。そもそもアメリカが強国でないと考えている人などいるだろうか。アメリカは強国であることよりもっと別のことを求められているのである。