西洋とイスラムの対立ではなく……(2)

哲学クロニクル205号

(2001/09/30)





西洋とイスラムの対立ではなく……(2)
(エドワード・サイード)

この状況では反米感情が生まれるのは、現代世界を憎むためでも、先進的な技術を羨望するためでもない。アメリカの具体的な介入と、現実の場での収奪についての人々の物語から、反米感情が生まれるのである。現実にイラクの国民はアメリカが課している経済制裁に苦しんでいるし、イスラエルが34年もの間、パレスチナ領土を占領していることに、アメリカは支援を与えているのである。

イスラエルは現在、パレスチナの軍事占領と抑圧を強化することで、アメリカの災厄を利用するという冷笑的な姿勢を示している。しかし米国の政治的なレトリックは、「テロリズム」や「自由」などという言葉を振りまくことで、この事実を隠蔽している。もちろんこれほど抽象的な概念を使うことで、さもしい物質的な利益への関心がほとんど覆い隠されてしまう−−石油産業、国防産業、シオニスト運動のロビー団体はいまや、中東全体への支配を強化しており、「イスラム」に対するむかしからの宗教的な敵対心が、そしてイスラムへの無知が、毎日のように新しい形で生まれ直している。

しかし知識人は現実をもっと批判的に受け止める責任がある。これまでももちろんテロルはあったのだし、近代のある段階からは、なにかを求めて苦闘する運動は、ほとんどつねにテロを利用した。南アフリカのマンデラのANCだってそうだし、シオニズムなどの他のすべての運動にもあてはまることだ。そしてF16戦闘機と攻撃ヘリを使って無抵抗の市民に爆撃を加えるというイスラエルの行動は、伝統的な愛国主義者のテロと同じ構造と効果をそなえているのである。

テロのまずいところは、宗教的あるいは政治的な抽象と、単純化する神話と結びつと、歴史と常識からは遠ざかってしまうことだ。アメリカ合衆国であるか、中東であるかを問わず、宗教的でない世俗のものの見方が、ここでとくに必要となる。いかなる大義によっても、いかなる神によっても、いかなる抽象的な理念によって、無辜の民を大量に殺戮することを正当化することはできない-----とりわけ、少数の人々がこうした行動に走り、現実には大義を実現する権限がないのに、大義を代表すると考える場合には。

さらに、ムスリムについての議論が明らかにしてきたように、単一のイスラムというものは存在しない。複数のアメリカがあるように、複数のイスラムがある。いかなる伝統でも、宗教でも、国家でも、かならず多様性が存在してきた。たとえその支持者たちが、境界を確立し、自分たちの信条を明確に定めようと努力しても、結局はむだなのである。デマゴーグたちが考えるよりも、歴史ははるかに複雑で矛盾したものである。そしてデマゴーグの支持者や反対者が考えるよりも、デマゴーグたちは歴史を代表してなどはいないのである。

宗教的な原理主義や道徳的な原理主義の困ったところは、革命と抵抗について素朴な考え方を抱くこと、とくにみずから進んでひとを殺したり、ひとに殺されることを受け入れようとすることだ。そしてこうした考え方が、あまりにも簡単に先進的な技術と結びつき、人々を怯えさせる報復という行動に喜びを感じるようになることだ。ニューヨークとワシントンを爆撃して自殺した犯人たちは、貧しい貧民ではなく、教育のある中産階級の人々のようだ。賢い指導者たちであれば、教育と、大衆の動員と、忍耐強い組織活動によって大義を実現しようとするだろう。しかし貧しく、絶望した人々は、今回のテロのように、宗教的なはったりやたわごとで仮装した魔術的な思考方法と、手早い血なまぐさい解決策へと誘い込まれがちなのだ。

ところで巨大な軍事および経済的な力をもっているからといって、叡智や道徳的な見方が生まれるものではない。今回の危機においても、懐疑的な意見や人道的な意見はほとんど耳にすることがなかった。アメリカは自国の領土から遠く離れた場所で、長期的な戦争を戦う方向に進む用意をしている。そしてごく不確実な根拠に基づいて、いったいどのような目的に向かうつもりなのかも明らかにしないまま、同盟国に支援を強要している。

戦争を求める声や信念が声高に語られているが、わたしたちは、人々をたがいにへだてる想像の上だけの区別から一歩さがって、こうしたラベルづけが正しいのかどうかを再検討する必要がある。利用できる限られた資源について確認し、わたしたちが互いにどのような運命を分かち持とうとするのかを、決めるべきなのである。これまでの多くの文明はそうしてきたのだ。

イスラムと西洋の対決というモットーは、考えもなく従うにはあまりに不適切なものではないだろうか。この旗印のもとに馳せ参じる人々もいるだろうが、一息いれて批判的なみかたをすることもなく、不正と抑圧がたがいに結び付いてきた過去の歴史を振り返ることもなく、たがいに解放と啓蒙をすすめることを模索することもなく、将来の世代に長期的な戦争と苦悩の責めを負わせることは、必然的なことなどではなく、意図的な営みだといわざるをえない。

他者を悪魔のように考えるのは、品位ある政治の確固とした基盤にはならない。とくに現在では、不正なテロの土台を取り去り、テロリストを孤立させ、阻止し、テロを実行できなくすることが可能であることを考えると、これはとうてい望ましいこととは言えない。たしかにそのためには忍耐と啓蒙が必要だ。しかしこれは、さらに大規模な暴力と苦悩へと突き進むよりは、はるかに有効な投資となるだろう。


作成:中山 元  (c)2001