現実という砂漠にようこそ(1)

哲学クロニクル210号

(2001/10/05)




今回は、テロ事件の直後の9月14日に発表されたジジェクの文章をご紹介しよう。映画『マトリックス』を手がかりにこの事件を分析するいかにもジジェクの本領発揮の文章だ。今回の事件の非現実性の感覚を分析するのに、ジジェクほど適した人物はいないかなしれない……。長いので二回に分けて掲載する。

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現実という砂漠にようこそ(1)
(スラヴォイ・ジジェク)

アメリカの数あるパラノイア的な幻想のうちでも、きわめつきの幻想がある−−小さなカリフォルニア州の田舎町の消費者天国で暮らしている人が急に、自分が生きている世界は「偽もの」ではないかと疑い始めるというものだ。自分が現実の世界に暮らしていると信じこませるために、大掛かりな仕掛けが企てられ、まわりのひとはみんな、この巨大なショーの俳優とエキストラではないかと疑い始めるのである。

この幻想を描いた最新の作品は、ピーター・ウイアーの1988年の作品『トゥルーマン・ショー』だ。小さな町の役人が(ジム・キャリー)、自分は24時間放映が続けられているテレビショーの主人公であるという真実を発見する物語だ。しかしそれ以前にもこの幻想を描いた作品はあった。なかでも注目に値するのは、フイリップ・ディックの1959年の作品『タイム・アウト・オブ・ジョイント』だ。1950年代末に、カリフォルニア州の小さな田園的な町でつましく暮らしている主人公が、町のすべてが自分を満足させるためにでっちあげられた偽物にすぎないことを発見するのである。

この『タイム・アウト・オブ・ジョンイト』と『トゥルーマン・ショー』の背景には共通の経験がある−−晩期資本主義の消費主義的なカリフォルニア州の天国とは、実はそのハイパー・リアリティにおいて、非現実的でなかみがなく、物質的な重みが欠けているということだ。

だからこう言えるだろう−−晩期資本主義の消費社会で、物質のもつ重みと慣性の欠けた現実の生活を真似たでっち上げを作り出しているのはハリウッドだけではない。「現実の社会生活」そのものが、でっち上げのまがいものという特徴をおびはじめているのだ。そして隣人たちは「現実」の生活の中で、舞台の俳優やエキストラと同じようにふるまっているというわけだ。

いわば精神を失った資本主義的で功利主義的な宇宙の究極の真理とは、「現実の生活」が物質性を失い、見せ物のショーへと転倒しているということだ。小説家のクリストファ・イシャウッドはモーテルの部屋に象徴されるアメリカの日常生活の非現実性について、「アメリカのモーテルは非現実的だ。わざと現実性をなくしているのだ。…ヨーロッパではアメリカ人を憎んでいるが、それは隠者が沈思黙考するために自分の洞窟に籠るように、アメリカ人がわれわれの広告の内側にひっ込むからだ」と語っている。

ペーター・スローターダイクの「球体」という概念が、アメリカでは文字通り実現されている。まるで巨大な金属の球が、都市の全体を包み込み、孤立させているかのようである。数年前のこと、『未来惑星ザルドス』や『ローガンズ・ラン』などの一連のSF映画が、コミュニティそのものにまで幻想を拡げて、このポストモダン的な状況を描いてみせた。隔離された場所で、無菌状態で孤立して暮らす人々が、物が腐敗するという現実の世界を体験したいと願うのである。

ラリーとアンディのウォシャウスキー兄弟の1999年のヒット作『マトリックス』はこの論理を究極にまで推し進めてみせる。われわれだれもが経験している物質的な現実、われわれがいまみているこの世界が、実はヴァーチャルな世界だというのだ。この世界は巨大なコンピュータが作り出して、調整している世界であり、人間はこのコンピュータに結ばれているというわけだ。キアヌ・リーヴズが演じる主人公が「現実の現実」に目覚めると、崩壊した廃墟のある荒れた風景があるだけだ−−世界戦争の後のシカゴの光景だ。レジスタンスのリーダーのモルフェウスは皮肉な挨拶の言葉を告げる。「現実という砂漠にようこそ」。

9月11日にニューヨークで起きたのは、これと同じような次元のことではなかったか。この町の市民は、目覚めて、現実の砂漠へと導かれたのである。われわれが目にした崩壊するタワーの光景とショットは、ハリウッドがすでにうんざりとするほどみせつけてきた世界の破滅を描いた巨大なプロダクションの作品を思い出させずにはいないのである。

この爆撃がどれほど予想もつかないものだったか、どれほど想像もできない不可能なことだったかについて繰り返し聞かされると、20世紀の初頭におきた別の破滅的な事件、すなわちタイタニック号の沈没を思い出す。この出来事は、破滅的な事件とはどのようなものであるかを初めて明らかにした。たしかに衝撃的な出来事だったが、イデオロギー的な幻想が編み上げられる中で、すでにこの事件のための舞台はできていた。タイタニック号は、19世紀の工業的な文明の力を示す象徴的なシンボルだったのである。

そして今回の爆撃も、同じ意味をそなえているのではないだろうか。メディアはテロリストの脅威にわれわれをうんざりさせるほど報道しているが、この脅威には明らかに、リビドーが備給されているのである。『ニューヨーク1997』から『インディペンデンス・ディ』までを考えてみてもわかるだろう。実際に起きた考えられないことが幻想の対象なのだ。ある意味ではアメリカ人が幻想してきたこと、まさにそのものが発生したのであり、これがアメリカ人にとっての最大の驚きなのだ。


作成:中山 元  (c)2001

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