現実という砂漠にようこそ(2)

哲学クロニクル212号

(2001/10/08)




ついに米英軍のアフガニスタン爆撃が開始された。予想できたことではあったが、ジジェクのいうように、テロをなくすための唯一の解決策である「〈ここで〉このような出来事が起きないようにするための唯一の可能な方法、それは〈他のどこでも〉このような出来事が起きないようにすることなのである」というごく自明な道は閉ざされてしまったようだ。今回はジジェクの後半。少し枝葉を刈り落とした訳である。

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現実という砂漠にようこそ(2)
(スラヴォイ・ジジェク)


われわれが破滅的な事態の生の〈現実〉そのものに直面しているまさにこの瞬間に、とくに注目しなければならないのは、どのようなイデオロギー的で幻想にまみれた〈座標〉が、この事態のうけとめかたを決定するようになるかということだ。世界貿易センターのツインビルの倒壊が、シンボルとして象徴するものがあるとすれば、それはこのビルが「金融資本主義の中心」であり、これが崩壊したという時代遅れの考え方ではない。このツインタワーはまさに、物質的な生産の圏域から切断された金融的な投機の中心、ヴァーチャルな資本主義の中心を象徴していたのである。

爆撃がこれほどに破壊的な影響を与えたことのほんとうの意味は、ディジタル化された第一世界と、「現実の砂漠」の第三世界が、明確に分離しているという背景を考えなければ理解できない。われわれが生きているのは、ある悪意をもったエージェントが、完全な破壊をめざしていつもわれわれを脅かしているという考え方を生み出すような隔絶した人為的な世界であることを自覚しなければならないのだ。

ジェームズ・ボンドの多くの映画には、世界全体の破壊を進めようとしている〈犯罪王〉ともいうべきアーネスト・スターヴォ・ブロフェルドが登場する。今回の爆撃の背後にいると疑われている〈支配者〉オサマ・ビンラディンは、この〈犯罪王〉が現実の世界に姿を現した人物なのだろうか。ここで思い出されるのは、ハリウッド映画で、われわれが実際の生産プロセスの全体をはっきりと把握することができるのは、ジェームズ・ボンドが〈犯罪王〉の秘密の領土に入り込み、そこで激しい労働の現場を発見するときだけであるということだ。この領土では、麻薬の精製と梱包、ニューヨークを破壊するはずのロケットの建造などの労働が営々と営まれているのである。

〈犯罪王〉は、ボンドを捕らえた後で、誇らしげに非合法の工場のツアーにボンドを伴う。社会主義リアリズムは、工場での生産と労働の現場を誇らしげに描いたものだが、この瞬間にハリウッドは、社会主義リスリズムともっとも近い顔をみせる。そしてもちろんボンドがこの秘密の領土に侵入するのは、この生産場所を爆破するためだが、それは「労働者階級が消滅しつつある」現実の世界での日常の生活に似た状況をふたたび作り出すためだ。こう考えると、ツインタワーの爆破はいわば、われわれを脅かす〈外部〉に向けられていたボンドの暴力が、われわれにブーメランのように戻ってきたということではないのか。

攻撃したテロリストたちは、過酷なまでに自己を犠牲にする者であると同時に、臆病でずるいインテリであると同時に、素朴な野蛮人であるかのように描かれた。この攻撃者はいまや、アメリカ人たちが暮らしていた安全な圏域を〈外部〉から脅かしているのである。われわれはいわば純粋な悪を体現する〈外部〉に直面している。こうしたわれわれは勇気を奮い起こして、ヘーゲル的な教訓を認めることを求められる−−この純粋な〈外部〉には、われわれの本質(エッセンス)が、精製された形で存在しているのだ。

過去五世紀にわたって、「文明化された」西洋世界は(相対的な)繁栄と平和を享受してきたが、これは実は容赦のない暴力と破壊を、「野蛮な」〈外部〉に輸出することでもたらされてきたのである−−アメリカ大陸の征服から、コンゴでの虐殺にいたる長い歴史がこのことを物語っている。残酷で冷淡に聞こえるかもしれないが、今回のテロ攻撃の実際の効果は、現実的なものというよりも象徴的なものであることに留意する必要があるのである。

アメリカ人は、サラエボからグロズニーまで、ルワンダからコンゴとシエラレオネに至まで、世界のさまざまな場所で日常的に発生している事態がどのようなものであるかを味わったのである。ニューヨークのこの状況に狙撃兵とレイプ魔を加えてみれば、十年前のサラエボがどんなものだったか、どうにか理解できるだろう。

テレビでツインタワーが崩壊するのをみていると、「リアルなテレビショー」がどれほど偽のものであるかを実感することができる。このショーは「リアル」だとしても、ショーに登場する人々は、まだ演技しているのである(たとえ自分自身を演じているのだとしても)。小説には「登場する人物はフィクションです。現実と似たところがあっても偶然です」という断りの文句が明記されるものだが、これはこの「リアルなメロドラマ」の出演者にもそのままあてはまる。われわれが目にしているのは、フィクションの人物である。たとえこれらの出演者がリアルに演技しているのだとしても。

もちろん「現実への復帰」には、もうひとひねりある。ジョージ・ウィルなどの右派のコメンテーターは、アメリカという「歴史という祝祭」が終焉したことをすぐに宣言した。現実の衝撃によって、リベラルで寛容な態度や、テクスト性を重視するカルチュラル・スタディーズの象牙の塔が粉砕された。いまやわれわれは逆襲し、現実の世界で現実の敵と直面しなければならないというわけだ。

しかしいったいだれに逆襲すればいいのだろうか。この問いにどのように答えようとも、われわれが完全に満足できるような「正しい」ターゲットを逆襲できるということはないだろう。アメリカがアフガニスタンを攻撃するということの奇妙さは、目を射るばかりである。世界最大の強国が、緑のない丘の上で農民たちがやっとのことで生き延びているにすぎない世界の最貧国を破壊するというのは、なんとも無能な〈アクティング・アウト〉の究極の見本としか言えないではないか。

この事件では「文明の衝突」が取り沙汰されているが、これにはある程度の真理が含まれていないわけでない。平均的なアメリカ人が今度の事件で、いったいなにに驚いているか、みていただきたい−−「奴等はどうして、自分の生命をこんなに犠牲にできるのだろうか」と驚いているのである。この驚きの裏側にあるのは、第一世界に生きるわれわれにとっては、人々が自分の生命を犠牲にすることを辞さない公的な「大義」や普遍的な「大義」というものがありうるということさえ、想像できないなっているという(かなり悲しい)事実なのである。

さらにアメリカが安全な港であるという考え方は、もちろん幻想である。爆撃のあとでニューヨーカーたちは、もはやニューヨークの街路を安全に歩くことはできないと語ったものである。しかしテロ攻撃が行われるはるか以前から、ニューヨークの街路は危険な場所として、歩いているだけで襲われる可能性のある場所として有名だったではないか。ところが皮肉なことに、今回のテロ攻撃で、この町に新たな連帯の感情が生まれている。若いアフロ・アメリカンの青年が、ユダヤ人の老年の紳士が交差点を渡るための介添えをするという光景が見られたが、これはわずか数日前には、とても考えられなかったことだ。

悪夢のような出来事を経験しても、その象徴的な影響がまだ実感できないという独特なずれが発生することがある。深く切りつけられると、痛みがしっかりと感じられるようになるまでには、一瞬のずれがあるものだ。いま、爆撃直後のこの時期に、だれもがこのずれのうちに生きているようだ。この出来事がどのように象徴化されるのだろうか。その象徴的な効率はどのようなものだろうか。こうした象徴は正当化のためにどのような行動を引き起こすのだろうか−−これらの問いはまだこれから答えられるべき問いである。

われわれは、この出来事が経済、イデオロギー、政治、戦争に、どのような影響を及ぼすかをまだ把握できない。しかしひとつのことだけはたしかだ。これまでは米国は、自分の国だけはこの種の暴力から免除された「島」のようなものだと考えてきた。そしてこうした暴力は、遠く離れた安全な場所から行使されるもので、暴力の現場はテレビの画面を通して眺めるだけだった。しかしいまや米国は直接の当事者となったのである。

だから次のどちらかが選ばれるだろう。アメリカ人は、自分たちの「球体」をさらに強化することを決定するだろうか。それとも球体から外に一歩踏み出そうとするだろうか。アメリカ人は、「なぜこんなことがわが国に起きたのか、こんなことは〈ここでは〉起こるはずがないのだ」という姿勢を強めて、安全な場所にとどまり続けるだろうか。そして〈外部〉を脅すために、さらに攻撃性を強め、パラノイア的な〈アクティング・アウト〉に走るだろうか。

それともアメリカはやっとのことで、自国を〈外部の世界〉から遮断している幻想のスクリーンの外に歩み出るというリスクを引き受け、「リアルな」世界に足を踏みいれるようになるだろうか。そして遅れ馳せながらも、「〈ここでは〉こんなことは起きてはならない」という姿勢から、「こんなことは〈どこでも〉起きてはならない」という姿勢に変わるだろうか。

「歴史から〈休暇〉をとっているアメリカ」という考え方はまやかしだ。アメリカの平和は、他の場所での破滅的な事態という代価を払ってあがなったものなのである。ここに今回のテロ攻撃の真の教訓がある。〈ここで〉このような出来事が起きないようにするための唯一の可能な方法、それは〈他のどこでも〉このような出来事が起きないようにすることなのである。



作成:中山 元  (c)2001

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