だれも無実ではない

哲学クロニクル215号

(2001/10/11)




今回は、デリダがアドルノ賞を受賞した際のインタビューをご紹介する。実は先日デリダのインタビューを紹介したので、順番としてはまだ先のはずだったのだが、昨日の10日の毎日新聞の夕刊に、大宮勘一郎氏の「表象するグローバル化の不安--ドイツで問うビンラディンの姿」という文章が掲載されたために、急遽配信することにした。

この文章ではデリダが『南ドイツ新聞』のインタビューで、「ビンラディンはグローバル化の表象」であると語ったと紹介しながら、「この言葉は熟慮を要するものであると思われる」として、グローバリゼーションとビンラディンの問題を考察している。グローバリゼーションの考察としては一読に値する文章だと思うが、デリダの発言として紹介されている言葉には、どうも納得がいかないし、ミスリーディングだと思う。

デリダはそもそもそんなことをいっていないのではないか。ぼくはデリダは、ある人物をグローバリゼーションの「表象」と表現して、なにかをいえたと考えるようなやわな思想家ではないと考える。原文がまだ幸いと読めるので、アドレスを書いておく。ぜひ原文と比較して、デリダがそのようなことをいっているかどうか、確認されたい。ビンラディンの言及は一箇所なのですぐにおわかりになるはずだ。
原文:http://szonnet.diz-muenchen.de/REGIS_A13035881

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だれも無実ではない
デリダ・インタビュー、南ドイツ新聞、9月24日号

【問】9月11日のテロについてどうお考えですか。
【答】この襲撃によってわたしたちは、グローバリゼーションの問題に、そしてこれまで受け継いできた戦争という概念の問題に、あらためて直面する結果となりました。それも考えられないほど残酷な形で。いかなる国民国家にも宣戦を布告せず、特定できる相手のいない戦争とは、そもそもどのようなものなのでしょうか。そしてこの戦争は巨大な資本の移動を伴うもので、襲撃の直前に先物市場の投機で、巨大な利益が得られていることが伝えられています。これらのすべてからみても、わたしたちはグローバリゼーションについて、資本主義と戦争について、あらたに考え直すことを強いられているのです。

【問】あなたご自身にとって、この襲撃はどのようなものでしたか。この破滅的な事態はあなたにはどのような意味がありますか。
【答】ほかのみんなと同じように、まったく仰天しました。それにニューヨークはよく訪問する街ですし、とても滞在するのが楽しい街ですので、わたしはこの街に強い愛着をもっています。犠牲者の方々には、心からの同情を感じます。しかしこの同情によって、だれにどのように責任があるかという問いに目をつぶってはならないのです。

【問】あなたはだれに責任があると思いますか。
【答】もちろん最大の責任があるのは、攻撃者とその背後にいる者たちです。しかし世界のこの地域に対して、しばらく前からアメリカとヨーロッパで進められていた特定の政治方針にも責任があります。

【問】いま、哲学者にはどのような責任と課題があるのでしょうか。
【答】哲学者も、国民と同じような政治的な責任を負います。しかし哲学者には、すでにお話したいくつかの概念について再検討するという別の課題があります。哲学者は感情としては、罪もなく犠牲になった方々の側にいると感じるかもしれませんが、哲学者に求められる批判的な問い掛けを放棄してはならないのです。

わたしは、西洋のすべての人々は、今回起きた出来事の直接的または間接的な犠牲者だと思います。しかし同時に、まったく責任のないひとはいないのです。この野蛮な襲撃を実行した人々に見方するつもりは毛頭ありません。わたしが疑問に感じているのは、オサマ・ビンラディンのような人は(彼が犯人だったと仮定してのことです。換喩の役割を果たす一つの名前だと考えてください)、自分が戦っている相手と同じ陣営にいるのではないかということです。彼は巨大な資本家であり、権力と資金の流れのネットワークの一部なのです。

【問】彼のような人物や、このネットワークとどのように闘えばいいのでしょうか。軍事的な攻撃によってでしょうか。
【答】こうした襲撃や、軍事的または警察的な解決策が必要なこともあるでしょう。しかし政治を作り直して、テロリズムの基盤そのものを消滅させなければ、こうした解決策では不十分なのです。それでないと、すべてがまた前と同じように始まってしまうのは確実なのです。襲撃者が、世論からの支持をまったく得られないようにしなければなりません。そしてそのためには、アラブ諸国とムスリム諸国に対するアメリカとヨーロッパの政治を変える必要があるのです。

【問】あなたが受賞講演でいわれた「夢の政治学」とは、どのようなものでしょうか。いま西洋世界の全体が、安全保障というただ一つの夢をみているのではないじょうか。
【答】確認しておきたいのですが、「夢の政治学」とは、夢見る人による政治学でも、夢見る人のための政治学でもありません。わたしがお話したとは、思考の夢であり、安全保障、愛国心、復讐などについての現在の集団的な妄想にかかわるものではありません。このような悪夢は打破すべきです。そのためには覚醒の政治学が必要です。このような夢からは、覚醒しなければならないのです。

【問】あなたは現在の状況において、安全保障を完全に放棄することができますか。
【答】できませんとも。安全保障を諦める必要があるなどと言うことは、まったくの無責任というものでしょう。わたしは警察が必要であり、軍隊が必要であると考えています。正義のためには、暴力を行使する必要があると考えています。わたしは武器を投げ捨てようなどとは申しません。しかし警察や軍隊だけでは、安全保障のためにも正義のためにも、なんの力もありませんし、不十分なのです。現在準備されている戦争だけでは、解決策とはなり得ません。夢は、「もっと別のものを見つけよう」とわたしたちに語りたいことでしょう。

【問】もっと別のものとは……。
【答】一言で要約することはできません。これは軍人や政治家たちだけの問題ではなく、アメリカやヨーロッパのすべての市民の問題です。そしてなにをなすべきかについて、わたしが講義できることでもありません。

【問】最近のご著書では「友愛の政治学」について語っておられますが、これはまだ可能なのでしょうか。可能だとすれば、どのようにして可能なのでしょう。
【答】わたしの考える友愛とは、受賞講演でお話した夢と同じように不可能なものなのです。しかし不可能とは可能性の反対ではないのですし、不可能であると語ることは、可能性を否定することではないのです。この不可能なことを実行することが、不可能なことを考え、行うことが必要なのです。可能なことしか起きないのであれば、もはや真の意味ではなにも起きないでしょう。わたしが自分にできることしかしなかったならば、わたしは実はなにもしていないということになるのです。

【問】しかし9月11日に起きた出来事は、まさに予測できないこと、不可能なことから発生したのではありませんか。
【答】いいえ、不可能性ではなく、憎悪が突発したのです。規模は途方もないものでしたが、予測できないことではありませんでした。世界中の人々が驚愕しましたが、この憎悪の突発は、まったく予測できないというものではありませんでした。アラブ世界の抵抗はずいぶん前から強まっていました。そしてはるか以前から、テロリストのネットワークは、軍事的にも資金的にも密なものになっていました。絶対に予測できない出来事ではなかったのです。この出来事は一つの計画であり、すでに可能になっていた要素が結びついて連鎖を作り出した出来事なのです。

作成:中山 元  (c)2001

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