市民の自由か安全か

哲学クロニクル216号

(2001/10/12)




少し重いのが続いたので(笑)、今回は軽めのエッセーを。哲学者のリチャード・ローティが最近のアメリカの世論が一色にそまったことを嘆いた文だ。戦時中の日本を思い出すまでもなく、怖いのは世論が片方だけに極端に傾いて、異論をすべて非国民扱いするような雰囲気が生まれることだ。ローティのペシミズムにも十分な根拠があるというべきだろう。その意味で短いけど、決して「軽い」ものではない一文だ。

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市民の自由か安全か
(リチャード・ローティ、ロンドン・レヴュー・オブ・ブックス、10月4日号)

歴史家のデーヴィッド・ケネディがかつて語ったように、テロリズムは戦争とは異なるものであり、戦争よりも悪いものだ。戦争には目的があり、いつかこの目的を実現して、敵対関係を終了させることができるかもしれない。しかしテロリズムの目的はテロリズムそのもの、恐怖だ。

ところで、わたしたちの孫の世代には、のしかかる脅威を表現するために、ほかに言葉もなくて、ほんらいは不適切な「戦争」という言葉を使うかもしれない。孫の世代には、この脅威のために要塞国家のうちに暮らさざるをえなくなるかもしれない。この要塞国家とは、制服を着用した人々がわめき声をあげながら部屋に突入してくるのに、だれもが慣れている国家、建物や公共のスペースを閉鎖し、事前に通告もなしに、疑わしい人物を逮捕する国家である。

この国にすむ人々は、(オーウェルの『一九八四年』さながら)オセアニアがいつもイースタジアと戦争していたし、これからもずっと戦争をしているに違いないと考えるだろう。オーウェルが懸念をもって予測していたように、戦争状態と平和な状態が交互に訪れるという考え方は、もはや通用しなくなるかもしれないのである。

テロリストの攻撃についてメディアで発言している大部分のアメリカの知識人は、市民の自由を侵害せずに、すなわちプライバシーを守る権利と、異議を唱える権利を侵害せずに、西洋が戦時体制に入れるかどうか、心配そうに疑問を表明している。この能力についてのオーウェルのペシミズムは、おそらく根拠のあるものだったことが明らかになるだろう。しかしそうはならないかもしれないのだ。

前回の二次にわたる世界大戦の間には、イギリスでもアメリカでも、市民の自由の侵害が数多くみられた。それでも制度的な民主主義の体制は維持されたからである。運がよければ、どうにか民主主義を固持することができるかもしれないのだ。

とても嫌な考え方なのだが、わたしは民主主義が守られる可能性は、米国よりもヨーロッパの方がわずかに高いかもしれないと思わざるをえない。ジェリー・ファルウェルは、テロリストの攻撃は、アメリカがゲイとレスヴィアンに寛容すぎたこと、アメリカ自由人権協会(ACLU)の活動に寛容すぎたことに対する神の怒りのためではないかと示唆していた。そしてこの考え方は、かなりの比率のアメリカ市民心のの琴線に触れたのである。

だからわたしとしては、たとえ人々を殺戮するこのハイテク攻撃がさらに頻繁になり、さらに多数の国々で発生したとしても、ヨーロッパが市民的な自由を堅持するという模範を、アメリカに示してくれることを期待したいのだ。

作成:中山 元  (c)2001

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