摩天楼の時代の終焉--エーコ・インタビュー(1)

哲学クロニクル221号

(2001/10/20)





今回はウンベルト・エーコのインタビュー。フランクフルター・ルントシャオの9月22日号掲載である。インタビューに赴くと、まだ質問もしないうちから、エーコは「ニューヨーク、ニューヨーク。だれもがニューヨークのことばかり。いったいわたしになにを言わせたいのかね。わたしは神託を語るわけじゃないんだぜ」と機先を制されたという。でもエーコの眼は輝いて、質問を誘っているようにもみえたというから、やつぱり話したかったのかも(笑)。レプブリカの記事は西洋の文化の利点に重点をおいたいわば「構えた」記事だったが、このインタビューはエーコの生の声が聞ける。長いので二回に分けてお送りする。


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摩天楼の時代の終焉
エーコ・インタビュー、フランクフルター・ルントシャオ9月22日


【問】エーコさん、世界貿易センターの展望室にいかれたことはありますか。【答】はい、でも一度だけです。わたしはツイン・タワーはあまり好きではありませんでした。いつもマンハッタンのスカイラインを損ねていると感じていたのです。タワーが崩壊した後では、もうそうはいっていられません。ですからわたしは、タワーは好きではなかったが、まだそこにあってくれた方が良かったと申しあげます。

たしかにわたしはあそこに一度だけ登りました。わたしはどこかに旅行すると、まず観光客好みの場所にいってみます。初めてニューヨークを訪問した際に、こどもたちと登ってみました。こどもたちはあそこからなら、ニューヨークをもっとも高くから眺められるだろうと思ったのです。その後、息子はニューヨークに10年も滞在するようになりました。グリニッチ・ビレッジの息子のアパートからは、両方のタワーがよくみえました。

【問】襲撃にはついてはどこでお知りになりましたか。【答】ボローニャ大学では、試験の答案を採点していると、同僚が駆け込んできて、教えてくれたのです。ニューヨークは、わたしが住んでみてもいいなと考える二つの都市の一つでした。ニューヨークにいればホームシックになることはないでしょう。とても好きな街なのです。ニューヨークの建築はいつも、盛り上がっていくジャズ・セッションのうちで生きているような感情を与えてくれます。即興と偶然が、秩序と調和を作り出すのです。この街のスカイラインは、絶対的な美という性格をそなえていました。

【問】過去形で話されますね。
【答】襲撃の後では、すっかり変わりました。これはここ数日繰り返し語られたことです。これは人間の悲劇と政治的な次元の問題です。でもその結果ははっきりと目にみえる形で示されています。モダン建築を一つ失ったのです。

【問】いまではタワーがないのが残念なのですね。【答】もっと根本的なものです。摩天楼の時代が終焉を迎えたのでしょう。崩れ落ちるタワーは、人間の魂を深いところで傷つけました。タワーはもはや力の強力なシンボルではなくなり、首都に聳えたつカテドラルでもなくなりました。ガラスの脚をもった傷つきやすい巨人なのです。これからは建築家は摩天楼を設計しなくなるかもしれません。だれもこのようにタワーに囲まれて生きたくはないからです。ペンタゴンは、平坦な建物だったので、襲撃の後にも生き延びました。

これからは、新しい摩天楼を建設するよりも、オクラホマあたりの広大な土地を購入して、平らで巨大な建物を建設するのが好まれるようになるかもしれません。こうして、アメリカの下町の伝統が、終りを告げるのでしょう。そして垂直な建物ではなく、水平な建物が力のシンボルになるのかもしれません。土地の風景は一変し、これとともに社会的な生活も変わるでしょう。

【問】言語にも変化があります。現在では「戦争」という概念はどのように理解されているでしょう。
【答】戦争の概念はすでに数年前から変化していました。人間の歴史において、敵をほろぼすことを目的とせずに始められた戦争は、湾岸戦争が最初でした。この戦争では、戦争を始めておきながら、自国の兵士の命は一人も失いたくはないし、他の国の人間の命は一人でも多く奪いたいというのです。これは伝統的な戦争の論理からみると、まったく狂った考え方です。

【問】そして旧ユーゴスラビアでの戦争が続きます。「人道主義的な理由」によって、ベルグラードを爆撃したのです。これはあなたの湾岸戦争における戦争の定義にあてはまりますね。では今回はどうでしょう。【答】アメリカの襲撃の後で、戦争の概念はふたたび変わりました。戦争ではふつうは、相手を殺すという脅しで、敵を萎縮させることができます。しかしいまや、自殺するつもりの人々が相手なのです。いったいどうすれはいいというのでしょうか。刑罰と処罰のシステムも変わりました。

9月11日以前は、アメリカはまだ死刑という脅しで犯罪を防げると信じていました。しかし飛行機をハイジャックして、高層建築に突っ込むような人々を相手に、どうやって脅せるでしょう。そしてこれが戦争であるとすれば、具体的な敵を相手とした戦争でも、テロに対する戦いでもないのです。これは軍隊の定義そのものを変えてしまいます。将軍たちもいまでは、軍隊にどのような使命があるのか、確信をもてなくなっているのです。

【問】ブッシュ大統領は、アメリカは「戦時中だ」と語りました。ドイツのシュレーダー首相は少し用心深く、「西洋世界への宣戦布告」と語っています。フランスのジョスパン首相は「戦争ではない」と語っています。だれが正しいのでしょうか。【答】それは利害関係によりますね。わたしの聞いたところでは、世界貿易センターのツイン・タワーは、テロリストの襲撃については、数十億ドルの保険に入っていたというのですが、戦争は保険の範囲外でした。タワーの所有者は、戦争だとは言いたくないでしょうなぁ。

もちろんどういう言葉を選んでも、残酷な出来事を変えることはできません。これを戦争と呼ぶか、テロと呼ぶか、野蛮への退行と呼ぼうが、同じことです。もちろんNATO諸国はいま、「戦争」と「襲撃」の法的な定義について、集中的に議論をしているに違いありません。テロリストたちがもしドイツから来たとすると……。

【問】数人の襲撃者はドイツで学んでいました。
【答】知っています。でもアメリカがドイツを襲撃するのではないかとは、だれも心配しません。いまのところ、ごく微妙な「言語の戦争」がみられますが、これが行為にもかかわってくるかもしれないのです。わたしたちはいま大きな転換点にたっています。だからこそ将来のための規則を定める必要があるのです。ジュネーブ条約の戦争の定義が、現在でもまだ有効でしょうか。

【問】あなたは戦争という言葉を使われるのですね。
【答】これは一種の戦争です。戦争と宣言されていない戦争です。わたしたちの生活はこれほどまでに逆立ちしているのです。



作成:中山 元  (c)2001

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