「無限の正義」の算術(2)

哲学クロニクル235号

(2001/12/16)





ロイの論考の二回目です。アフガニスタン、パキスタン、インドにとってのこの戦争の意味を詳細に考察していて注目です。アメリカの戦争の論理が死の算術になっていることを指摘する「無限の正義の口やかましい算術の詭弁」のところはさすがですね。

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「無限の正義」の算術(2)
(アルンダティ・ロイ、ガーディアン、二〇〇一年九月二九日)



 まずこの作戦は、だれにとっての無限の正義であり、不朽の自由なのだろうか。このアメリカの戦争は、アメリカ国内のテロとの戦いなのか、それともすべてのテロと戦うのか。正確にはなにに復讐するのか。七千人ちかい人々の悲劇的な死、マンハッタンの五百万平方フィートのオフィス・スペースの崩落、ペンタゴンの建物の一部の損壊、失われた数十万人の雇用、いくつかの航空会社の倒産、ニューヨークの株式相場の低落に報復するのだろうか。それとももっと別のものに復讐するのだろうか。

 一九九六年のこと、当時アメリカの国務長官だったマドレーン・オルブライトは、米国の経済制裁で五〇万人のイラクの子供たちが死亡したことをどう思うかと、全国ネットワークのテレビで質問された。オルブライトは「とても難しい選択でした」と語りながら、すべての点を考慮にいれると、「この代価にみあう価値はありました」と答えたのである。そしてこの発言で職を失うこともなく、米国政府の見解と意向を代表しながら、世界中を訪問し続けたのである。それどころではない。今もイラクへの制裁は続いている。そして子供たちは死に続けているのだ。

 こういうことだ。文明と野蛮の区別、「無辜の人々の虐殺」、「文明の衝突」あるいは「空爆による巻き添えの死」の区別は言い逃れだ。これは無限の正義の口やかましい算術の詭弁なのだ。世界をよりよくするために、そもそも何人のイラク人が死ななければならないのか。一人のアメリカ人の死を償うために、何人のアフガニスタン人の死が必要なのか。男一人の死のために、何人の女性や子供が死ななければならないのか。一人の投資銀行の銀行員の死のために、何人のムジャヒディン戦士たちが死なねばならないのか。

 わたしたちが麻痺したように見守る中で、「不朽の自由」作戦は世界中のテレビで放映され続けている。世界の超大国が手を取り合って、世界でもっとも貧しく、戦争で破壊され尽くした国の一つであるアフガニスタンに迫っている。アフガニスタンを支配するタリバンが、九月一一日の攻撃の責任者とされたオサマ・ビンラディンをかくまっているからだ。

 アフガニスタンから確実に取り立てることのできるものがあるとしたら、それは一般市民の命だろう(そのうちの五〇万人は、負傷した孤児たちだ。遠く、人里離れた村に義足が投下されると、足の不自由な人が殺到したと報道されている)。アフガニスタンの経済は悲惨な状態にある。実際にアフガニスタンに侵攻した部隊は、軍の地図で確認できるような伝統的な標識や目標がないの困惑する。大都市も、高速道路も、工業団地も、浄水場もないのだ。農場は巨大墓地と化している。山間部には地雷が埋まっている。最近の推定では一千万個もあるという。アメリカ軍は、兵士を侵攻させるために、まず地雷を除去して、道路を建設しなければならないだろう。

 アメリカの攻撃を恐れて、百万人の国民が自宅を捨てて、パキスタン国境ちかくに逃げている。国連では、緊急に援助が必要なアフガニスタン国民の数を八百万人と推定しるいる。食料や緊急援助を与える組織は国外退去を求められているので、援助がとまろうとしている。BBCでは、人道的に世界で最悪の災厄が始まると報じている。これが新しい世紀の「無限の正義」の姿なのだ。市民は飢え死にしながら、殺されるのを待っているのである。

 アメリカでは「アフガニスタンが石器時代にもどるまで爆撃する」という乱暴なことが言われている。どなたか、アフガニスタンはもう石器時代にもどっていると、お伝えいただけないだろうか。そして慰めになるかどうかはわからないが、アフガニスタンがこうになるには、アメリカが大きな役割を果たしたのだと。アメリカ市民はアフガニスタンの正確な現状には詳しくないかもしれないが(アフガニスタンの地図が飛ぶように売れていると報じられている)、米国政府とアフガニスタンは、じつは昔からの友人なのである。

 一九七九年にソ連がアフガニスタンに侵攻した後、CIAとパキスタンの諜報機関ISIは、CIAの歴史でも最大規模の秘密作戦を開始した。この作戦の目的は、ソ連に抵抗するアフガン勢力を束ねて、抵抗活動をイスラムの聖戦ジハードに拡大すること、そしてソ連内部のイスラム諸国を立ち上がらせ、ソ連の共催主義体制に抵抗させて、共産主義を弱体化することにあった。この作成が開始された際には、アフガン戦争をソ連にとってのベトナム戦争にすることが目標とされていた。しかしことはそれでは終わらなかったのである。

 CIAは長年のあいだ、ISIを通じて、四〇か国のイスラム諸国から、一〇万人もの過激なムジャヒディン戦士たちを、アメリカの代理戦争を担う兵士として集めてきた。ムジャヒディンの下級兵士たちは、自分たちの聖戦が実際はアメリカのために戦われていることを知らなかった(皮肉なことに、アメリカもいずれ自国を標的とした戦争のための資金を提供していたことを知らなかったのだが)。

 ソ連は、一〇年間の過酷で血なまぐさい戦争の後、アフガニスタンの文明社会を瓦礫にして、一九八九年に撤兵した。そしてアフガニスタンでは内乱が猖獗を極めた。聖戦はチェチェンとコソボに拡大し、いずれはカシミールにも拡がった。CIAは資金と兵器を注入し続けたが、経費は巨額になり、ますます多額の資金が必要になった。

 そこでムジャヒデンは「革命税」として、アフガンの農民にアヘンの栽培を命じた。ISIはアフガニスタンの全土に、数百のヘロイン工場を設立した。CIAが介入していから二年以内に、パキスタンとアフガニスタンの国境地帯は、世界最大のヘロイン産地となり、アメリカの路上で売られるヘロインの最大の供給源となった。そして千億から二千億ドルもの年間収益は、兵士の訓練と軍備のために利用された。

 一九九五年には、当時はまだ危険な強硬派の原理主義の末端的なセクトだったタリバンが、アフガニスタンで権力を掌握した。CIAの昔からの同僚であるISIから資金の提供をうけ、パキスタンの多くの政党から支援されていたタリバンは、恐怖政治を始めた。最初に犠牲になったのはアフガニスタンの国民、とくに女性である。女子校を閉鎖し、政府の女性職員を解雇した。そしてシャリーアを施行したが、このイスラム法のもとでは「不道徳」とみなされた女性は石打の刑で死刑にされ、姦通の罪を犯した未亡人は生き埋めにされるのだった。タリバンがこうして人権を無視してきたことを考えると、戦争が始まるという見込みだけで、あるいは市民の命が奪われるという危険性だけで、怖じ気づいたり、目的の遂行をあきらめたりすることはないだろう。

 これまで起きたことのうちで、ロシアとアメリカが結託して、アフガニスタンをふたたび破壊することほど、皮肉な事態を想像できるだろうか。問題なのは、破壊し尽くされたものをもういちど破壊できるだろうかということだ。アフガニスタンにこれ以上の爆弾を投下しても、瓦礫の山をかきまわし、昔からある墓を崩して、死者の眠りを妨げるだけではないのか。

 アフガニスタンの荒涼たる風景は、ソ連の共産主義の墓場となり、アメリカの世界一極支配の発祥の地となった。さらにアメリカが支配する新資本主義と、企業のグローバリゼーションのための空間を創設した。そしていまアフガニスタンは、アメリカのためにこの戦争を戦って勝利を収めた兵士たちの墓場となろうとしている。

 それではアメリカが信頼している同盟国はどうなったか。パキスタンも深刻な被害をこうむっている。アメリカ政府は、パキスタンに民主主義を根づかせる試みを阻止した軍事独裁を、臆面もなく援助している。CIAが介入する以前には、パキスタンの農村にはごく小規模なアヘン市場しかなかった。しかし一九七九年から一九八五年にかけて、それまでいなかったヘロイン中毒者が百五〇万人にも膨れ上がった。九月一一日のテロ以前にも、三百万人のアフガン難民が、国境沿いの難民キャンプでテント暮らしをしていた。

 パキスタンの経済は崩壊状態にあり、派閥争いによる暴力、グローバリゼーションによる構造改革計画、「ドラッグ長者」で、国は引き裂かれている。ソ連と戦うために設立されたテロリスト訓練センターと宗教教育施設マドラサは、大地に撒かれて兵士たちを地中から生んだテーバイのドラゴンの歯のように、パキスタンの全土に撒かれ、原理主義者たちを生み出した。この原理主義者たちはパキスタン国内で、巨大な人気を集めているのである。

 パキスタン政府が長年にわたって支援し、資金を提供し、支えてきたタリバンは、パキスタンの政党と戦略的に重要な連携を行っている。そしていまや米国政府は、長いあいだパキスタンが手塩にかけてきたペットの首を締めるように求めているのである(しかしほんとうに求めているのだろうか)。米国への支援を約束したムシャラフ大統領は、やがて内乱をもてあますことになるだろう。

 インドは幸運なことに、地理的な有利さと、以前の指導者たちのビジョンのやおかげて、これまではこのビッグゲームからは距離をおいている。もしもインドがこのゲームに巻き込まれた場合には、わが国の民主主義はいまのままでは生き残れないだろう。そしてわたしたちが恐怖の思いで見守るうちに、インド政府はいま米国に、パキスタンではなく、インド国内に基地を設立するよう哀願している。

 パキスタンの悲惨な運命をすぐ近くで見守りながら、インドがこのようなことを哀願するとは、奇妙なだけでなく、考えられないことである。経済が脆弱で、社会的な基盤が複雑な第三世界の国なら、アメリカのような超大国を国内に引き入れるのがどんなに危険なのか、いまではよく理解できたはずなのだ。通過するだけにせよ、滞在するにせよ、アメリカを国内に引き込むことは、窓ガラスの向こうにあるレンガを、ガラスを割って部屋に招きいれるのと同じことなのである。

作成:中山 元  (c)2001

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