サイバー空間の思考――まえがきに代えて
中山 元


■インターネットの可能性とリスク
 インターネットという空間は、不思議な魅力に満ちている。ぼくたちはここでそれまで未知の人々と出会い、議論し、助け合い、そして別れる。ぼくたちはここで新聞を読み、稀覯書のマニュスクリプトに頭を悩ませ、これまで入手できなかったような書籍を読む。ホットなニュースをラジオやテレビと同じように見聞きする。図書館のような、十八世紀のパリのサロンや、十九世紀のロンドンのコーヒーハウスのような独特の雰囲気をもつ空間。
 それでいて奇妙なのは、この空間がいかなる物理的なももたない仮想的な空間だということだ。いつもそこにあり、どこにもない空間。日常の生活の中にそのまま根を下ろしていながら、しかもぼくたちの日々の生とはまったく異質な場。ユートピアのようでありながら、時間や空間を超えたどこにもない場所ではなく、今ここにある場。
 ミシェル・フーコーは、すでに一九六七年に、この異様な空間に一つの名前を与えていた。ヘテロトピア(異なる場所)。もちろんこの時代にはインターネットはない。フーコーは日常生活から逸脱する「外の空間」をユートピアとヘテロトピアに分けて考える。ユートピアは人々の思考の中にしか存在しない、本当に「ない」場所である。これに対してヘテロトピアは、実際の施設や制度の内に存在しながら、人々を現実から運び去る場として考えられていた。人々は図書館、博物館、映画館のような場所で、「伝統的な時間との絶対的な断絶」を感じるのであり、ここで異なる場であるヘテロトピアがわずかな時間だけ生まれ、そして消滅する。
 しかしインターネットの登場とともに、ことばの真の意味で「異なる場所」にふさわしい場が生まれたといえるだろう。現実の図書館や博物館よりも、このサイバースペースこそが、ヘテロトピアと呼ばれるのにふさわしい。ぼくたちは今ここにある空間において、「絶対的に異なる場所」の存在を実感するからである。
 たとえばメーリングリスト(ML)。ここでは一人の主宰者が場を提供し、その場の方針に賛同した者たちが、議論を傾け、情報を提供し、互いに刺激を与えあう。複数の人々に同時に配信されるメールという手段が、ある公共の空間を作り出す。もちろん脆い空間であり、人々が維持する意欲をもたなくなった瞬間に、ただちに消滅する。しかし、この議論の空間がぼくたちの思考に与える刺激はとても大きい。
 あるいはウェブ・ページにおかれたオンラインのマガジン。ここでは印刷という伝統的な手段に依拠せず、ごくわずかなコストでマガジンを創刊することができる。そして誰もが自由に文章を公開し、誰もが自由にこれを閲覧できる。そこには、作者と読者の間に、これまでは考えられなかったような新しい関係が生まれる。
 ぼくはたんにインターネット讃歌を唱えたいわけではない。この新しい関係や新しい空間は脆く、時に危険なものでもある。インターネットという顔のみえない空間では、小さな誤解をきっかけとした感情的な対立が発生しやすい。
 さらに、この空間は「自由」であることの代価を伴う。インターネットには、フーコーが指摘したような「パノプティコン」的な監視の危険性が含まれているからだ。ぼくたちが毎日発信するメール、ネットでの買い物、銀行取引、それらすべてのデータが集約され、監視されるようになったら、これほど剣呑なものはないだろう。そしてその監視の可能性だけでも、ぼくたちの行動が規制され始めることは、フーコーが『監獄の誕生』で明らかにしてくれたことだ。
 しかし、ぼくはある日、リスクと可能性の両方を含むこのサイバースペースが、思考の営みにとって、とても有益なものとなりうるのではないかと考え始めた。インターネットのリスクを生きることで、新しい種類の思考の可能性が生まれるのではないかと考えたのである。一九九五年夏のことだった。そして翌年の年頭から、哲学のメーリングリスト「ポリロゴス」をスタートさせた。哲学に関心のある友人たち十数人で始めたこのMLは、次第にメンバーを増やし、最盛期には六百人近いメンバーを擁して、活発な議論の場となっていった。
 さらにこの時期から、さまざまなテーマや哲学者をメインにした個別のMLをスタートさせた。いまは活動を停止したものを含めると、レヴィナス、フッサール、メルロ=ポンティ、フーコー、ドゥルーズ、ルーマンなどの哲学者をテーマとしたMLや、日本思想史、ドイツ思想史、フランスの構造主義、中世哲学などのMLがあった。そして現在でも多数のMLで、なごやかに、時には激しく、議論が行われている。
 また一九九六年五月には、ポリロゴスのサイト(http://nakayama.org/polylogos/)で、マガジン「ポリロゴス」第一号を創刊した。毎回百枚以上の原稿を掲載しながら、すでに二六号を数えている。このウェブでの原稿の発表によって、さまざまな読者の方々との交流が生まれたことは、まったく新しい種類の体験だった。ポリロゴスの関連MLの一つであるアゴラのメンバーによって、オンライン・マガジン「アゴラ」(http://nakayama.org/agora/)も誕生している。
 そしてついに、こうしたサイバー空間で積極的に活動しているメンバーたちの思考の成果をまとめた本書が登場することになった。本書の執筆者たちは、現実の生活では研究者であり、創作家であり、教育者であるが、インターネットというサイバー空間においては、MLを主導しながら、さまざまなメンバーと議論と交流を深めてきた。インターネットでの思考活動の成果がこのようにまとめられて書籍になることは、これまであまり先例がなかっただけに、意義のあることだと思う。

■フーコー特集
 さて、この書籍版のポリロゴスの最初の号では、中山が長らく研究を続けてきたミシェル・フーコーを特集することにした。最初の論文「外の思考」(中山元、一四頁)は、フーコーのブランショ論のタイトルを借りたものだが、フーコーが魅惑されたルーセルの書物を中心に、フーコーの思考において文学の世界が果たした役割について考えた。次の「ミシェル・フーコーとポリス国家」(近藤一昭、三八頁)はフーコーのポリス論を手がかりに、政治哲学としてのフーコー思想の可能性を検討している。さらに「わたしは狂っているのか」(野村美優紀、四九頁)は、社会から課せられる「正常」という規範を突き抜けるために、フーコーの思想を「励まし」として受けとめようというメッセージを伝える。「自己への配慮」(中山元、六四頁)は講演原稿であるが、ハイデガーから大きな影響を受けたフーコーとアレントを軸に、「自己への配慮」の道徳的、政治的な意味を考えようとした。
 そしてこれからフーコーを読もうとする読者の方々のために、二つの資料を用意した。「フーコーを読むために」(中山元+二木麻里、一〇六頁)では、主体、権力、真理を三つの軸に、どのようなテクストから入ればフーコーの思想にアプローチしやすいかを紹介した。次の「フーコー・オン・ザ・ネット」(中山元+二木麻里、一一五頁)は、現在インターネット上で利用できるフーコー・リソースを集めたものである。フーコーのテクスト、フーコー論、著作目録など、さまざまな資料が入手できる。ここに掲載したものだけで、書籍数十冊に相当するボリュームであり、しかも日々増え続けている。

■フーコーを魅惑した三人の思考者たち――翻訳集
 またフーコー特集の一環として、フーコーが魅惑され続けた三名の文学者のテクストを翻訳した。フーコーはバタイユ論で、「弁証法と人間学の絡みあったまどろみ」から覚醒するためには、そして無言の状態に追い込まれた表現に言葉を与えるためには、「バタイユ、ブランショ、クロソウスキーがさしあたり住処とし、思考の極」としていた文学的な表現に赴かざるをえないと指摘していた。フーコーにとってこの三人の文学者は、哲学とは異なる場所で、哲学の向かうべき方向を指さすようなテクストを生み出す作家たちだったのである。
 まず最初に、フーコーが「外の思考」という文章を捧げたブランショの二つの文章をお読みいただきたい。最初の「大いなる閉じ込め」(中山元訳、一二四頁)は、ブランショがフーコーの『狂気の歴史』を読みながら、思考の経験から排除される領域において、思考されざるものを考えようとする文章である。この文章は、ブランショの『際限なき対話』からとったものだが、文章の最後にバタイユの名前が示されていることから分かるように、次のバタイユ論にそのままつながる。ぜひ次のバタイユ論とひとつながりに読んでいただきたい。
 ブランショの「肯定すること、そして否定的な思考の情熱」(中山元訳、一三四頁)は、この思考されざるものを極限まで考察し、生きようとしたバタイユへのオマージュである。バタイユは『内的体験』において、ブランショとの印象深い対話を記録している。バタイユが内的体験について説明し、それがいかなる権威ももたないのではないかと、みずからの営みに疑惑を表明すると、ブランショは、体験そのものが権威であると答えたのである。このブランショの答えの意味を、この翻訳から読み取っていただけるのではないかと思う。
 次に、フーコーが「侵犯の思想」という長文の論文を捧げたバタイユの「ヘーゲル――人間と歴史」(中山元訳、一五一頁)をお読みいただきたい。バタイユの「内的体験」は、ヘーゲルの思想との対決から生まれたものだけに、バタイユのヘーゲル論はバタイユの思想を理解するための要となる文章だ。特にこの文章は、「内的体験」がヘーゲルの『精神現象学』の主奴論を軸に展開されていることを示すものである。さらに「内的体験」から生まれた非知の思想が、至高者の思想や『呪われた部分』の「反・経済学」的な思考と、どのような回路を通じて結ばれるかを明かしてくれる。
 最後に、「アセファル」や「聖社会学」グループをバタイユとともに生きたクロソウスキーの文章の翻訳「マルクスとフーリエの間」(中山元訳、一七九頁)を掲載した。フーコーは、クロソウスキー論「アクタイオーンの散文」において、クロソウスキーを同一性の思想を揺るがす「シミュラークルの思想家」として称賛していた。クロソウスキーが一九八一年に「国家文芸グランプリ賞」を受賞したのも、フーコーの推薦によるものだ。
 この文章は、クロソウスキーがフランスの新聞ル・モンドのベンヤミン特集ページに寄せたものである。この時期にバタイユを頼ってパリを訪れていたベンヤミンとバタイユのグループとの交流が描かれていて、興味深い。タイトルの「マルクスとフーリエの間」は、当時のベンヤミンが隠し持っていた構想を示唆するものだが、クロウスキーにとっても重要なテーマである。フーコーはクロソウスキー宛ての書簡において、彼の『生ける通貨』を賞賛しながら、「考えるべきことは、そこにあったのです。欲望、価値、シミュラークル――わたしたちを支配し、数世紀もの間、西洋の歴史においてわたしたちを形成してきたこの三角形です」と語っていたことを思い出そう。「マルクスとフーリエの間」とは、価値と欲望の間、労働と欲望の間を意味するはずだ。

■インターネットというメディア――メーリングリストから
 このフーコー特集と並行して、インターネットでの思考活動の可能性を示す二つのシーンをご紹介したい。ポリロゴス関連MLの一つに、インターネットを思考のツールとして使うためのML、アリアドネ(http://ariadne.ne.jp/)がある。
「インターネットで『蝉』を追う」(二木麻里、一八二頁)はこのMLのさまざまなメンバー間での情報交換と交流のもとで、一つの謎が解明され、新たな謎としてさらに深められる経緯を紹介したものである。
 この報告はインターネットというメディアによって、これまでとは異なる思考と対話の可能性が生まれていることを示すものとして興味深い。

■インターネット上の思考――ポリロゴス論考・翻訳集
 次の「ポリロゴス論考・翻訳集」では、ポリロゴスという空間において結実したさまざまな思考の営みをご紹介しよう。
「二重の論理学、溢れ出る生」(湯山光俊、ドゥルーズML、一九四頁)は、ドゥルーズのベーコン論を軸に、「意味の論理学」と「感覚の論理学」の二つの論理学の重なりと拮抗を描き出す。
「知と情報」(原宏之、アゴラML、二〇八頁)は、ハイデガーの技術論を手掛かりに、コンピュータやインターネットのもつ「危険性」を考察しながら、情報の時代における「対話」の意味に立ち戻ろうとする。
「実験をめぐって」(中塚則男、アゴラML、二二五頁)は、加藤典洋の文章「語り口の問題」を手がかりに、「実験」の概念を捉えなおす。
「『詩的理性批判』に向けて」(清水満、ドイツ思想史ML、二三六頁)では、ドイツ観念論における天才の概念に立ちもどりながら、アナロジーや隠喩を含む大きな理性、推論的な理性を越えた「詩的な理性」の復権を試みている。
「作曲家のメールボックスから」(酒井泰斗、ルーマンML、二五二頁)では、作曲という営みを、社会におけるコミュニケーションという視点から考察する。この論文は、インターネットでの「ピア・レビュー」を試みたものとしても注目される。
「『かのように』をめぐって」(中原拓也、日本思想史ML、二六二頁)は、来栖三郎『法とフィクション』を読みながら、歴史や政治の場でのフィクションの価値について考える。
 また、ソフィストのアンティポンのものと伝えられる「アンティポンの法廷弁論」(富田章夫訳・解説、アゴラML、二七一頁)は、ぼくたちを古代アテナイの生々しい政治の現場に連れもどす。古代ギリシアにおいて哲学は、法廷や議会での雄弁術と深く結びついていたのである。

■読者の方々へ
 このように『ポリロゴス1 特集:ミシェル・フーコー』は、ウェブページとMLを軸に展開されたさまざまな思考活動の成果として、生み出されたものである。これらのMLやウェブページはすべての読者に開かれている。読者の方々が、このサイバースペースにおける思考空間、ポリロゴスに参加されることを期待したい。
 冬弓舎の内浦亨さんの企画・編集によって、書籍版『ポリロゴス』は一年に二号のペースで刊行される予定である。読者の方々がこのサイバー空間に参加され、創造的な議論と活動を展開されること、そして将来の『ポリロゴス』の新しい執筆者として登場されることを切望してやまない。
 なお、この書籍はインターネットの哲学サイト「ポリロゴス」(http://nakayama.org/polylogos/)と連動している。一度お立ち寄りいただきたい。