ハート/ネグリの『帝国』を読む

国連のパラドックス(1-001)


帝国の問題がでてくるのは、世界の法的な秩序があるからだ。それでは現在の秩序はどのようにして構成されているのか。これが著者の最初の問いである。この問いには、根本的に異質な世界のさまざまな勢力の相互作用から自然に生まれたものだと答えることもできる。これは世界市場を自然で中立な「隠された手」が調和をとっていると考えるのと同じ路線にある。

あるいは、世界の勢力から超越した単一の勢力と、単一の合理性の中心の力で世界の秩序が生まれたと説明することもできる。これはすべてを予見した意識的な計画に従って歴史のさまざまな段階の発展をみちびいたと考えるもので、グローバリゼーション陰謀説もその一つだ。

もちろんこの二つの対立する説明は安易なものであり、帝国についても、世界秩序についても、なにも語ったことにはならない。ハート/ネグリは最初からこうした説明は拒む。それではどのような説明が可能か。著者が採用するのは、これらの非歴史的でアプリオリな説明ではなく、歴史的なプロセスを推移しながら、現在の帝国の構築について考察しようとする。

そのためにこの章では、国民国家の至高な主権と、この主権に基づいた国際的な権利の概念から、帝国の権利をもつポストモダンの最初のシステムができるまでの長い移行期間に注目しながら、法的なカテゴリーが構成されるまでの歴史を追跡する。具体的には、国連とその関連制度という超国家的な法的な形式がどのように生まれたかという系譜学的な考察だ。

こうした国際的な組織は、ポストモダンの時代になって初めて生まれたものではない。三十年戦争が終結して、一六四八年に締結されたウェストファリア条約いらい、さまざまな形の国際制度が模索され、平和が目指されてきたことは周知のことだ。ルソーもカントも、どのようにすれば恒久的な国際平和が可能かという問題を、切実な問いとして模索していたはずだ。

ハート/ネグリは、さまざまな仮説を紹介しながらも、こうした国際秩序の観念とその危機の観念が確立されたのは、第一次世界大戦の後の国際連盟の設立の際であることを確認する。そして第二次世界対戦の終結とともに、国連が設立され、ヨーロッパ的な規模を越えた初めての世界的な組織として誕生する。

この歴史からみると、国連は国際連盟の延長にあると同時に、新しい世界的な組織であるという二面性をそなえている。国民国家の集まりであるとともに、地球的な規模で新しい司法の力を確立するという両方の特徴をそなえているわけだ。著者が指摘するように、国連は「国際的な構造から、地球的な司法構造に移行する系譜における蝶番」(4)の役割を果たしていることになる。

国連は一面では、国連に加盟する国民国家の主権の正統性と承認を基礎として構成される。国際的な権利が主権をもつ国家の間の条約によって定義されるという古い枠組みをまだ残しているわけだ。しかし逆説的なことだが、この国家の主権の正統性が承認されるためには、諸国家は超国家的な中心に主権を現実に譲渡する必要がある。国民国家が完全な主権を主張していては、国連で活動することができないからだ。

著者たちはこの国連のもつ逆説的な構造に注目する。ここに国民国家の構造をほんらいの意味で地球的なシステムへと押す「現実の歴史的なテコ」のようなメカニズムが働いていると考えるからだ。このプロセスは国民国家の原則にとっては「不適切」なものかもしれないが、不適切であることが、それが効果的なものとなっているのである。

この超国家的な組織を法的な視点から考察するには、国連の設立にあたって理論的に中心的な役割を果たしたハンス・ケルゼンの著作が有益だと著者は考える。一九一〇〜一九二〇年代に、すでにケルゼンは国際的な司法システムが、すべての国の法的な組織と構成の至高の源泉となるべきだと提案していた。

ケルゼンは、国民国家のもつ限界が、権利の理念を実現するためには克服できない障害物になることを見抜いていた。勢力の異なる国民国家の間の対立を終わらせ、現実の国際世界の原則となるべき国家間の平等を確立するのは国際組織だけであり、こうした組織は論理的であるだけでなく、倫理的であると主張する。ケルゼンはカントの理念を受け継いで、「普遍的な世界国家」による啓蒙と近代化を模索していたのである。

それだけに、実際の帝国の誕生を考察するには、ケルゼンの理念はあまりにもユートピア的なものとなってしまう。この国際組織はどのように構成され、編成されるべきについては、ケルゼンは回答をもたないからだ。そして国連が設立されてからというもの、国民国家の主権を基礎としながら、それに基礎を与えるという逆説的な役割のために、さまざまな妥協が(ときには愚行が)繰り返されてきたことは周知のことだ。「ごく倒錯した理論と現実的な帰結」と著者は書き記している。

そもそもこのプロセスを理解するための適切な概念が提示されていないことが問題なのだ。超国家的な基礎をもつ国連を考察するために使われているのは、国民国家の設立の際に利用された二つの概念枠組み−ホッブス的な理論とロック的な理論である。ホッブスの理論では、国民国家は契約のもとで主権を放棄することで、国際組織に加盟すると考える。国家を超越した「地上の神」である超国家組織だけが、世界の無秩序を解決できると考えるわけだ。

ロック的な理論でも同じく契約によって主権が国際組織に譲渡される。しかし主権を譲渡した時点で、この国際組織を構成する国々のネットワークが生まれ、これが「地球的な市民社会」を構成し、国際組織を支えていくことになる。どちらも国民国家の成立の際の契約のモデルで国連を考察するものであり、新しい事態をうまく捉えられないと著者は指摘する。ぼくたちが現在目にしているプロセスは、まったく新奇な性格のものであり、国際組織についてのパラダイムシフトが起きていることが理解されていないのである。それではこの現実はどのような性格のものだろうか。