ハート/ネグリの『帝国』を読む

帝国の新奇性と普遍性


ハート/ネグリは、この帝国は新奇なものであり、グローバリゼーションが基本的な新しい状況であり、歴史的な大きな変動期であるにもかかわらず、それを認めない理論家として、世界システム論と帝国主義論の二つのタイプをあげている。この理論に対抗する形で、著者はどこが新しいかを示そうとしている。

まずウォラーステインは1979年の『資本主義的な世界経済』において、資本主義が最初から世界経済という性格をそなえていたのであり、二〇世紀になって初めて世界的なものとなったと考えるのは誤りだと主張している。

著者も資本主義が最初から世界経済としての傾向をそなえていたことはたしかだが、だからといって現在の資本主義生産と世界的な力関係が、まったく新しいものとして登場していることは無視できないと考える。そして資本主義は現在では経済的な権力と政治的な権力を統合し、法的にも、超国家的な単一の政治組織を目指しているからであり、これを経済的な世界システムだけの側面から考えることはできないという。

また、アメリカ合衆国などの有力な国民国家が他の諸国や地域に帝国主義的な支配を行使していると考えて、世界の力関係の大きな変動をみようとしない理論家もいる。現在の帝国の登場は、たんに帝国主義を完璧なものとしようとする試みにみえるわけだ。その実例としてあげられているのは、1992年のサミール・アミン『カオスの帝国』である。

これについて著者は、帝国が帝国主義の延長という側面をもつことを認めながらも、現在の状況では強国の覇権よりも、これらの強国をポストコロニアル的でポスト帝国主義的な権利の概念のもとに、統合する上位の組織が模索されていることを指摘する。新しい権利の概念とともに新しい権威が登場し、契約を保証し、紛争を解決するために説得を行う規範と法的な手段の作成のための新しい構想が生まれていることを重視するわけである。

ハート/ネグリの分析で顕著なのは、帝国の法的な側面である。法的な構成の変化は、世界の秩序と権力の物質的な構成の変動を効果的に示す指標として使えると考えるわけだ。グローバリゼーションでは経済的な側面と政治的な側面が分離できないことは、アジアの経済危機の際のインドネシアとマレーシアの対応の違いにはっきりと示されたが、著者はさらに人権を含む法的な側面をとくに重視していることは注目しておこう。

これまでの帝国主義の世界では、国際法は契約と条約を基礎としていたが、現在では新しい単一の主権をもつ超国家的な世界権力が定義され、構成される過程にあり、現代の司法の状況はもはや国際法では理解できないというのが、著者のスタンスである。この法的な側面の重視は、グローバリゼーションにおける社会的な問題と視点の重視にもつながる。これまでの生・権力論では、社会の身体が考察されてきたが、ハート/ネグリはいわばこれを拡張して、地球の身体を考えようとするわけだ。論理的な方向だといえるだろう。

そしてこのグローバリゼーションの社会的な問題は、帝国の政治的な理論の核心に存在する。著者はこの超国家的な主権の問題、その正統性の源泉、それが政治的、文化的、存在論的な問題にどうかかわってくるかを考察しながら、この問題を解こうとする。

さて著者は帝国の概念そのものに、こうした政治的および法的な問題が含まれていることを指摘する。帝国の概念の起源はローマに、そしてキリスト教にたどることができるが、ローマ帝国は倫理的なものと法的なものの一致と普遍性を極限まで追求しているという。帝国のあるところには平和があり、帝国に住むすべての人々に正義が保証されるという概念があるからだ。パックス・ロマーナ。

こうして帝国では単一の権力が社会の平和を維持し、倫理的な真理を作り出す。帝国の身体は、社会の身体をこえた統合的な身体なのである。この身体を維持するために、帝国は国境においては「蛮族」と、国内においては叛乱と「正義の戦争」を戦う権利があるとされてきた。だから帝国は、正義を実現するという法的な概念のもとに、初めから政治的・倫理的なタイナミクスを蔵していたのである。

ハート/ネグリは、この法的な概念には、二つの基本的な傾向があったことを指摘している。まず権利の概念は、文明の普遍的な空間の全体を包含する新しい秩序の構築において主張された。第二に権利の概念は、その倫理的な土台のうちで、すべての時間を含むものとして考えられていた。この空間と時間の二つの全体性のもとで、帝国は倫理的な秩序のうちに、歴史を停止させながら、過去と未来のすべての時間を包括する。「要するに、帝国はその秩序を永続的で、永遠で、必然的なものとして提示する」(11)。