ハート/ネグリの『帝国』を読む

帝国の概念の歴史と「正義の戦争」


さてこのように普遍的で全体的なものとして登場したローマ帝国だが、著者はこの二つの権力の概念が、キリスト教のおかげで中世を通じてそのまま維持されたとみている。政治思想の歴史ではこれはキリスト教の権力と封建国家の権力の分離と統合のプロセスとして考えることができるだろう。両剣論が象徴するように、二つの権力が力を合わせながら、帝国を維持しようとする。しかしルネサンスの世俗化とともに、時間と空間の二つの全体性は分離し、別々の道を歩み始める。

まず空間的な全体性が一度崩壊し、そのあとで近代のヨーロッパで国際法の概念が登場する。空間的な全体性は国民国家の内部に限られる形でひとまず分裂するが、その後でローマ帝国の模範にならいながら、全体的な主権をもった国民国家が条約によって国際平和を達成しようとするわけだ。グロティウスからプーフェンドルフまでの理論家がその理論的な作業に専念することになる。

同時に時間的な全体性が崩壊した後で、サン・ピエールとルソーからカントにいたるまで、一八世紀のヨーロッパでは永遠平和の概念が登場し、その可能性が模索される。この概念は理性を導く「光」のようなものとして、倫理と理性の理想を示す役割を果たす。そしてこの二つの権利概念に対応するように、近代のヨーロッパではリベラリズムと社会主義のイデオロギーが登場する。

リベラリズムは、複数の国民国家の法的な力が平和のうちに調和することに依拠しているし、社会主義は闘争を組織化することで、国際的な統一を作り上げることを重視する。リベラリズムは空間的な複数性に依拠し、社会主義は人間の前史の終焉と新しい歴史の始まりを目標としていることは示唆的である。

そしてハート/ネグリは、現代における帝国の登場とともに、この二つの権利概念が再び単一のカテゴリーに統合されるのはではないかと考えているが、これはこの書物の最後のところで解決される疑問になるだろう。著者は現代がローマ帝国の再来という意味をもつことを示す兆候として、「正義の戦争」の概念が登場していることを指摘している。

ローマでbellum justumとして提起されたこの概念は、もちろん聖書にまでさかのぼる伝統があるが、湾岸戦争をきっかけとそして政治的の世界の中心的なテーマとして登場したことに、ハート/ネグリは注目する。その実例としてあげられているのは、マイケル・ウォルツァーの『正義の戦争と不正な戦争』(1992)と、ジーン・ベック・エルシュテイン編『正義の戦争の理論』(1992)だ。

ほんらいは正義の戦争とは、ある国は、自国の領土や政治的な独立を危険にさらすような侵略の脅威に出会ったときには、戦争をする権利(jus ad bellum)があるという概念である。これは正しい戦争のやりかた(jus in bello)とはことなる。著者は、世俗化された国家が中世の伝統において批判し、排除してきた正義の戦争の概念が再登場したことに、少し困惑してみせる。伝統的な国民国家の枠組みでは、戦争は基本的に世俗化され、倫理的な要素を排除していたと考えるからだ。

ぼくとしては湾岸戦争以前にも、第二次世界大戦においても、この「正義」の概念ははっきりと登場していたのではないかと考える。戦争犯罪の法廷における「人道への罪」という概念は、こうした正義の概念なしでは成り立ち得ないだろう。ただしこれは戦争をする権利(jus ad bellum)よりも戦争における正義(jus in bello)にかかわるものというべきだが。

著者は現代の正義の戦争の概念には、古代や中世とは明確に異なる要素が存在していることを指摘している。アウグスティヌスから反宗教改革までの時代には、正義の戦争は防衛や抵抗の視点から考えられていた。ところが現代では戦争が、それ自体において正当な活動とみられるようになっている。これには二つの要素が組み合わさっているという。倫理的な根拠のある軍事装備の正統性と、望ましい秩序と平和を実現するための軍事行動の効率性である。ハート/ネグリは、「新しい帝国の基礎と伝統を決定する上で、これらの二つの要素の総合が核心的な役割を果たす可能性がある」(13)と指摘する。

いわば敵は戦争そのものと同じように、世俗的なものとなっている(日常的な警察の抑圧の対象におとしめられる)と同時に、絶対的なものとされる(大文字の敵として、倫理的な秩序に対する絶対的な脅威として)。湾岸戦争がその典型的な例であり、帝国の登場の兆候となるわけだ。