ハート/ネグリの『帝国』を読む

警察のモデル


湾岸戦争という否定的な例があげられたが、ハート/ネグリは帝国への移行はこうした否定的なものだけとして考えるべきではないと戒める。否定神学のように、「でないもの」として定義することも避けるべきだと。否定的な定義(国民国家の主権の崩壊、国際市場の規制緩和、主体としての国家の対立の終焉)だけでは、帝国は無秩序としてしか理解できなくなる。新しい帝国のパラダイムは、肯定的な性格をそなえているはずである。

著者はこのパラダイムを考えるのに、ルーマンのシステム論と、ロールズの正義論をあげている。具体的な政治理論としては、ルーマンのシステム論を展開したのがTeubner/Gebbrajo, eds., State, Law, and Economy as Autopoietic Systems(1992)であり、ロールズの正義論を展開したのがCharles Beitz, Political Theory and International Relations(1979)である。また帝国の構造的な論理を表現するのに「政府なき統治」という概念が使われることがある。Rossenua/Czempeil, Governance without Government, 1992で提示された概念だ。

これらの政治理論では、平和、均衡、軋轢の解消を目指し、そのための世界的な秩序が望まれているわけだ。その秩序を作り出すマシンには、権威が必要であり、社会の全体の空間において、権威と行動を行使するには、この権威の裏付けが必要となると著者は考える。あらかじめ構成された運動が、世界の秩序を帝国として構成する。

著者が提示する新しいパラダイム−−帝国の権威が生まれるためには帝国の権威があらかじめ存在しなければならないというのはほとんど循環的な論理だ。しかし国家や憲法の設立には、この論理矛盾的な要素はつねに存在することは、デリダがつねづね強調しているところだろう。あるいはルーマン的に、システムに固有の運動というべきかもしれない。

これを言い換えるとこういうことになる。主権をもつ国民国家から比較的独立し、これに対して重層的に決定されている既存の権力だけが、新しい世界秩序の中心として機能し、効率的な規制を、そして必要な場合には強制を実行することができる(15)。著者たちは、この循環的な要素がルーマンとロールズだけでなく、すでにケルゼンにあったことを指摘しながら、古代の帝国、テュキディデスやタキトゥスの描く帝国が、権力を基礎とするより、権利と平和を推進する権利をもたらすことのできる能力を基礎として設立されることを示している。

さて、この新たに生まれる帝国にはどのような特徴があるのだろうか。
−法的な実証主義。これは規範的なプロセスの核心に、強固な権力が存在する必要があることを強調するものだ。
−自然権の理論。帝国のプロセスがもたらすのは、平和と均衡の価値であることを強調する。さらにこれに含まれる契約主義の理論は、コンセンサスの形成のための前提となる。
−政治的な現実主義。これで制度の規範的なプロセスがコンセンサスと権利の新しい次元に適切なものであることが示される。
−形式主義とシステム主義。システム主義が正当化し、組織するものに論理的な支持を与え、システムが全体化する力をもつものであることを強調する。

この特徴づけは「もさもさ」していてあまりすっきりしないし、ぼくにはあまり説得的ではなくて、少し残念。著者たちもこれでは不十分と感じているのだろう。こうした特徴をそなえた超国家的な組織の法的なモデルを提示しようとする。この法的なモデルの力学と分節化は、モダンからポストモダンへの移行の際に、国内秩序の特徴となった力学と分節化ととても一致しているという。

この移行については、ハート/ネグリの『ディオニュソスの仕事』に詳しいという。ぼくはこの著書は未読なので、どのような力学と分節化が語られているかはよくわからないが、この類似は国際秩序の「国内的なアナロジー」として理解するのではなく、国内の法的な秩序の「超国家的なアナロジー」として理解すべきだという。

ともかくこの両方の秩序には、ある共通の要素がある。この秩序の主要な特徴は、手順、防止、対処などの法的な実践への覇権(ヘゲモニー)が確立されることだ。そしてこれから規範性、制裁、抑圧などが生まれる。このような共通性がみられるのは、危機という同じ土壌から生まれたためであり、シュミットが指摘するように、「例外状況」のもとで形成されたからだ。

著者はこの新しい秩序の形成において、シュミット的な「例外状況」が非常に重要な役割を果たしていると考える。完全に流動的な状況を制御し、支配するためには、介入する権威は次のような能力をもつ必要がある。(1)毎回例外的な方法で、介入の要求を定義する能力、(2)危機における配置の要請と複数性にさまざまな方法で適用できる力と装置を作動させることのできる能力。

ここで介入の例外性のもとで生まれるのは、実際には「警察ポリスの権利」に他ならない。著者が考えているモデルとは、実は警察ポリスのことなのである。このポリスは、フーコーのポリツァイであるとともに、ベンヤミンの暴力論で描かれる警察に近いような印象を受ける。社会の福祉を保護し、社会を防衛する権力として行使されるポリスの権力。そして臨時的で、法を措定するとともに法を維持するという逆説的で怪物のような警察の権力というわけだ。新しい権利は、社会的な均衡を再建するために予防し、抑圧し、レトリック的な権力という形成される。「これらのすべてはまさに警察の活動そのものにほかならない」(17)。

帝国の権力が警察の権力から生まれるというのは逆説的なようだが、地球身体を防衛する権力が存在するとしたら、それはきっと地球ポリスなのだろう。「帝国の秩序の正当性が、警察の権力の行使を支え、同時に地球的な警察の力の活動が、帝国の秩序の実際の効率の高さを証明する。このように、例外状況を支配する法的な権力と、警察力を展開する能力は、権威の帝国モデルを定義するための最初の二つの座標になる」(17)のである。