ハート/ネグリの『帝国』を読む

帝国と普遍的な価値


ところで著者は、この警察のモデルのもとで、権力という概念がまだ有効だろうかと問い掛ける。たえざる例外状況のもとで、警察の権力が行使されるのであれば、権利と法の問題は、実質的には純粋な効率の問題に還元されてしまう。このような状況で、まだ権利という概念を使うことができるものだろうか。この問いに答えるためには、現在ぼくたちが目撃している帝国の構成のプロセスをさらに詳しく検討してみる必要があると著者は考える。

著者が注目するのは、国際法が個々の社会や国民国家の行政法に及ぼす影響であり、超国家的な法律が、国民国家の国内法に及ぼす影響であり、超国家的な法律が、国内法よりも強力で優位にあることだ。そのわかりやすい例は、欧州連合の「命令」だろう。EUに加盟している諸国は、一定の期間のうちに、この命令を国内法に変えて施行しなければならない。

これはこうした地域連合だけの問題ではない。EUが個人情報を保護しない企業や組織に制裁を加えると、日本のような国でも、個人情報を保護するための(現在のような奇妙な形になったとはいえ)法律を施行せざるを得なくなる。社会と国家と市場を閉ざすのでなければ(もちろんそんなことは不可能だ)、もはや国際的な法規は無視できない。そのよい例が、温室効果を防ぐための気候変動枠組み条約だろう。アメリカが京都議定書を「死んだ」と宣言しても、国際的な条約として定められれば、その外部にとどまることは不可能なのである。

本文に戻ると、著者はこれがもっとも顕著に表されるのが、いわゆる「介入権」が発展したきたことだと考えている。介入権とは、世界秩序を支配するさまざまな主体が、人道的な問題を解決し、調和を保証し、平和をもたらすために介入する権利のこととされている。そのわかりやすい例は国連憲章だ。これは、国際秩序を維持するために定められている制度だが、著者は最近はこの権利の大幅な再構築が進んでいることに注目する。

これまでは個々の主権国家や超国家的な(国連の)権力が、自主的に結ばれた国際的な合意を確保し、強制するために介入が行われてきた。現在では超国家的な主体が、権利だけではなく、コンセンサスによって正統性を確保しながら、なんらかの緊急性や、上位にある倫理的な原則の名において介入する。ここで注目する必要があるのは、正義という基本的な価値を訴えることで、緊急性と例外状況が恒常的な状況として正当化されるということだ。著者は、警察ポリスの権利が、倫理や人道などの普遍的な価値によって正統化されることが重要だと考える。

しかしである。それではこの帝国の警察の権利は、ほんとうに倫理や人道などの普遍的な価値に依拠していると言えるのだろうか。正義と平和という普遍的な力が、主権国家を超えた新しい権力を構築するマシンとなっているのと言えるのだろうか。古代のローマとキリスト教の世界で夢想されていた真の意味での帝国が誕生しているのだろうか。

もちろんことはそう簡単ではない。この帝国が誕生し、その警察の権力が行使されるのは、危機と戦争の場においてであり、この事実そのものが、その正義の概念の正統性を疑問にするからである。戦争はつねに対立する利害と対立する視点を生む。これまでの長い歴史をみても、ある国の正義がある国の不正義である事例には事欠かないだろう。そこで問題となるのは、ハート/ネグリが指摘しているように、だれがこの正義と秩序の定義を決定するのか。平和の概念を定義することができるのはだれか。歴史を中断させるプロセスを統一し、この中断を「正義」と呼ぶことができるのはだれか。「これらの問いをめぐって、帝国の問題系はまったく開かれたままであり、閉じられていないのである」(19)。

しかしこの新しい法的な秩序の問題は、ぼくたちにとっては机上の空論ではなく、アクチュアルなものだ。この新しい次元においてぼくたちの市民性と倫理的な責任が問われるからだ。カントの概念を使えば、ぼくたちの内的な道徳的な傾向が、帝国の倫理的、政治的、法的なカテゴリーのもとで試練にかけられるというわけだ。著者は、すべての人間の外的な道徳性は、帝国の枠組みでしか問い得なくなっていると考える。そしてこの枠組みのために、ぼくたちが「炸裂するような一連のアポリア」に直面すると。

帝国が出現することで、もはやぼくたちは普遍性をローカルな形で媒介するという責務ではなく、具体的な普遍性そのものの責務に直面するというわけだ。カント的な道徳性にローカル性があるとは思えない。しかしヘーゲル的な意味での倫理には国内性があるだろう。著者が指摘しているのは、カント的なモラルではなく、ヘーゲル的な人倫だと考えることができるだろう。人倫はこれまでは一つの共同体で培われるものだった。しかし帝国の誕生とともに、道徳性と人倫が直接に統合される。もはや共同体の違いによる倫理の差を考えることができなくなる。少なくとも理論的には。

この重要な問題を提起しながら、著者は帝国の誕生を考える場合には、帝国の腐敗と崩壊を同時に考察する必要があることに注意を促す。ぼくたちが直面している「例外状況」とは、ローマ帝国の建国の時点でなく、民族移動にともなう「蛮族」の侵入にともなって、それまでの伝統的なやり方を崩さねばならなくなった時に現れたものだからだ。逆説的なことに、新しい帝国は生まれると同時に、それを「危機」として示すのである。

ハート/ネグリは、この「腐敗」とは道徳的な意味だけでなく、法的に、そして政治的に考察する必要があると指摘する。モンテスキューが語るように、共和国で異なる形態の統治が確立していないと、この腐敗のプロセスが始まり、共同体を分解してしまうからだ。さらに腐敗は形而上学的な意味でも考える必要があるという。実体と本質、効率と価値が両立しないところでは、生成ではなく腐敗が発生するからだという。

この腐敗とその後で語られる千年至福説は少しわかりにくいが、著者にとっては戦略的な意味をもつところなのである。千年至福説は古代と近代の対立に相当する帝国へのまなざしの違いをもたらした。繁栄する帝国の崩壊とみるか、これから訪れる真の帝国への兆しとみるかは、歴史的にも存在論的にも大きな違いをもたらすからだ。ここでもはごく簡単に示唆されているにすぎないが、ハート/ネグリは、ここに帝国の誕生においてすでに孕まれている崩壊の契機と、帝国を超える一つの戦略的な手掛かりを見出だそうとするのだ。